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この物語は、
ある休日の朝の出来事である。
朝7時。
スマートフォンのアラームが鳴る。
眠い目をこすりながらスマホを見ると、
こんな記事の通知が目に入った。
「朝の10分で差がつく!デキる大人のモーニングルーティン」
……なるほど。
世間は今日も元気らしい。
朝起きて、
白湯を飲んで、
ストレッチをして、
ヨガをして、
読書をして、
資格の勉強をして。
休日には朝活。
スキルアップ。
自己投資。
生産性向上。
素晴らしい。
ぜひ、そのまま日本のGDPを支えていただきたい。
私はというと、
ソファーの上で薄い毛布にくるまっていた。
起きる気配は、ない。
完全に肉体を最適化している。
たぶん、芋虫に近い。
いや、もっと正確に言えば、
毛布の中に潜伏する謎の生物である。
私は考えた。
ここから1センチでも外に出たら、
そこには「社会」が待っている。
時間。
仕事。
人間関係。
責任。
評価。
そして、
「ちゃんとしなさい」
という、
誰が言っているのか分からない声。
だったら、
ここにいればいい。
毛布の中には、
締め切りもない。
評価もない。
急かされることもない。
誰かに、
「今日は何をしたんですか?」
と聞かれることもない。
ここは安全だ。
私はこの場所を、
「毛布の要塞」
と名付けた。
革命の始まりである。
……と言いたいところだが、
別に何かに立ち向かっているわけではない。
ただ、寝ているだけである。
布団の中から社会を見る
現代社会では、
「時間を有効に使うこと」が
とても大切なことのように語られる。
朝は早く起きる。
一日の予定を立てる。
運動する。
勉強する。
働く。
人と交流する。
休日も有意義に過ごす。
そうやって、
少しでも自分を成長させる。
もちろん、
それが悪いわけではない。
自分の生活を整えることも、
新しいことを学ぶことも、
とても大切だと思う。
でも、
誰もが、いつでもそれをできるわけではない。
身体が疲れている。
心が疲れている。
人と関わることに疲れている。
外に出ることが怖い。
何をするにもエネルギーが必要なのに、
そのエネルギー自体が残っていない。
そんな状態の人に、
「まず動きましょう」
と言われても、
動くための燃料がない。
私にとっての燃料は、
アルコールだが、
朝からそんなものを補充するほど
馬鹿ではない。
……たぶん。
それなのに、
「どうして動かないの?」
と聞かれれば、
本人だって困ってしまう。
動きたくないのではなく、
動くための力が残っていない。
そんなことだってある。
だから私は、
布団から出られない日があっても、
それだけで「怠けている」と決めつけなくてもいいのではないか。
と思う。
外から見れば、
ただ寝ているだけかもしれない。
でも本人にとっては、
それが自分を守るために必要な時間かもしれない。
何もしないことが、
その日の最善策ということだってある。
参考元 : (厚生労働省) ひきこもり支援に関する取組
毛布は、ときどき安全基地になる
毛布にくるまっていると、
不思議と安心する。
外の世界には、
いろいろなものがある。
仕事。
学校。
人間関係。
時間。
予定。
期待。
「普通はこうするよね」
という、
見えないルール。
そして、
「ちゃんとすること」
を求められる。
毛布の中にいると、
それらから少しだけ距離を置ける。
何かを達成しなくてもいい。
何時間働いたかを
証明しなくてもいい。
成長していることを
見せなくてもいい。
ただ、
そこにいる。
それだけでいい。
そう考えると、
毛布は単なる防寒具ではない。
ときどき、
心と身体の安全基地
になる。
もちろん、
ずっと毛布の中にいればいい、
という話ではない。
人間には、
食事もしなければならないし、
トイレにも行かなければならない。
何より、
私の場合は別の問題がある。
猫である。
しかし、それは後で説明しよう。
とりあえず今は、
毛布の中から社会を観察する。
軍隊で言えば、
塹壕から敵の動きを確認しているところだ。
ただし、
私が狙っているのは敵兵ではない。
次の二度寝のチャンスだ。
「動けない人」に、動くことだけを求めない
ここからは、
少し真面目な話をしたい。
福祉や支援の場では、
「外に出られるようになりましょう」
「生活リズムを整えましょう」
「働けるようになりましょう」
という目標が設定されることがある。
もちろん、
その人が望んでいるのであれば、
それを支えることは大切だ。
でも、その前に、
「なぜ、今は動けないのか」
を一緒に考えることも、
同じくらい大切なのではないだろうか。
身体の問題なのか。
心の疲れなのか。
人間関係なのか。
環境とのミスマッチなのか。
仕事そのものが合っていないのか。
あるいは、
いくつもの問題が重なっているのか。
原因は、
人によって違う。
だから、
「頑張れば動ける」
と簡単には言えない。
そもそも、
頑張るためのエネルギーが
残っていないこともある。
そこで必要になるのが、
支援なのだと思う。
支援というと、
「その人を動かすこと」を
イメージするかもしれない。
でも私は、
動けるようになるまで支えることも、支援なのではないか
と思っている。
安全に過ごせる場所をつくる。
話を聞いてくれる人がいる。
必要な支援につながる。
生活を少しずつ立て直す。
そして本人が、
「もう一度、少し動いてみようかな」
と思えるところまで待つ。
それも大切な支援だ。
特に就労支援では、
「就職できたか」という結果だけに
目が向いてしまうことがある。
もちろん、
就職は大きな目標の一つだ。
でも、
働けたことと、働き続けられることは違う。
就職したあとも、
どんな仕事をするのか。
何時間働くのか。
休憩は取りやすいのか。
人間関係はどうなのか。
困ったときに相談できるのか。
体調に合わせて調整できるのか。
そうした環境が整っていなければ、
せっかく働き始めても、
また疲れ果ててしまう。
「はい、就職できました。
ここからは自分で頑張ってください」
では、
ちょっと急すぎる。
毛布の要塞から、
いきなり戦場に送り出されるようなものだ。
革命家だって、
補給なしで戦い続けることはできない。
ましてや、
すでに体力も気力も削られている人に、
「気合いで何とかしろ」
というのは無理な話である。
まあ私は革命家ではなく、
休日のソファーから動けないだけなのだが。
そしてもう一つ大切なのは、
本人だけを変えようとしないこと。
人が環境に合わないからといって、
いつも人のほうを変える必要があるわけではない。
音が苦手なら、
音の少ない環境にする。
人間関係が負担なら、
関わり方を調整する。
長時間が難しいなら、
働く時間を考える。
休憩が必要なら、
休める仕組みをつくる。
相談しづらいなら、
相談できる相手を増やす。
つまり、
「どうすれば、この人を社会に合わせられるか」
だけではなく、
「どうすれば、この人が無理をしすぎずに生きられる環境をつくれるか」
を考える。
人を社会に合わせるだけではなく、
社会のほうを少しだけ、
その人に合わせる。
それも支援なのではないだろうか。
参考資料 : (厚生労働省) 障害福祉サービスについて
それでも、革命には現実的な問題がある
さて。
ここまで偉そうなことを書いてきたが、
毛布の要塞にも弱点がある。
時間が経つと、
身体から信号が送られてくる。
まず、
「トイレに行きたい」
という問題。
そして、
「腹が減った」
という問題。
さらに、
もっと深刻な問題がある。
猫である。
「にゃー」
……
聞こえないふりをする。
「にゃー」
もう一度。
「にゃー」
近い。
かなり近い。
どうやら我が家には、
革命政府より強い勢力が存在するらしい。
猫は容赦がない。
革命だろうが休日だろうが、
腹が減れば関係ない。
私は毛布の中で考えた。
トイレを我慢するか。
空腹を我慢するか。
それとも、
猫に屈するか。
……
結局、私は毛布から出た。
まずトイレ。
そして、
猫のご飯。
革命は終わった。
社会に敗れたのではない。
猫に鎮圧されたのである。
「休むこと」も、生きるための行動
以前の私は、
休日にも何かをしなければいけないと思っていた。
本を読む。
映画を見る。
勉強する。
掃除をする。
文章を書く。
何かを達成する。
せっかくの休日なのだから、
有効活用しなければもったいない。
そんなふうに考えていた。
でも、
身体や心が疲れているときに、
さらに予定を詰め込んでも仕方がない。
むしろ必要なのは、
増やすことではなく、減らすこと。
予定を減らす。
人との連絡を減らす。
考えることを減らす。
「やらなければならない」を減らす。
そして、
何もしない時間をつくる。
毛布にくるまっているだけでもいい。
ぼーっとしていてもいい。
寝てもいい。
それは、
「何もしていない」
のではなく、
これ以上、自分を削らないための時間
なのかもしれない。
休んでいるように見える時間にも、
その人なりの意味がある。
だから、
「今日は何もできなかった」
ではなく、
「今日は、これ以上壊れないように休んだ」
と考える日があってもいい。
生産性から、一度降りてみる
私たちは、
自分が何をしたかで
一日を評価しがちだ。
朝起きた。
仕事に行った。
勉強した。
運動した。
人と会った。
何かを完成させた。
それなら、
「今日はよく頑張った」
と思える。
では、
朝起きられなかった。
外に出なかった。
誰とも話さなかった。
毛布の中にいた。
そんな日は、
「何もできなかった日」
なのだろうか。
私は、
そうとは限らないと思う。
生きるだけで精一杯の日には、
生き延びることそのものが
十分な仕事になることがある。
特に、
心や身体が限界に近づいているときは、
「もっと頑張る」
よりも、
「これ以上、無理をしない」
ことのほうが重要な場合もある。
もちろん、
何日も何週間も動けない状態が続くなら、
一人で抱え込まないほうがいい。
家族や友人。
医療機関。
相談支援。
福祉サービス。
頼れるところにつながっていい。
でも、
「頑張って動く」
それだけが答えではない。
動けない自分を、どう支えるか。
それも考えていい。
「休める場所」があること
だからこそ、
人には「休める場所」が必要なのだと思う。
家でもいい。
学校でもいい。
職場でもいい。
福祉の支援先でもいい。
そこでは、
「今日は無理です」
と言ってもいい。
少し休んでもいい。
失敗してもいい。
また戻ってきてもいい。
そういう場所があるだけで、
人は少し安心できる。
ずっと立ち続けることを求められたら、
いつか倒れてしまう。
でも、
立ち止まってもいい場所があれば、
また歩き出せることがある。
支援とは、
人を前に進ませることだけではない。
ときには、
安心して立ち止まれる場所をつくること。
それも支援なのだと思う。
毛布の要塞だって、
考えてみれば同じだ。
私はそこで休む。
そして、
少し回復したら外へ出る。
また疲れたら、
戻ってくる。
その繰り返しでいい。
今日も私は革命を続ける
私は、
社会を変えるようなことはできない。
デモもしない。
演説もしない。
革命旗を掲げたりもしない。
ただ、
毛布の中から、
「朝は早起きしたほうがいい」
「休日も有効活用しよう」
「生産性を上げよう」
「人生を充実させよう」
という声を眺めている。
そして、
「……はいはい。
今日はちょっと休ませてください」
と思う。
誰かに決められた
「正しい生き方」から、
一度だけ降りてみる。
自分のペースを取り戻す。
それも、
小さな抵抗なのかもしれない。
もちろん、
ずっと毛布の中に籠城すればいい、
という話ではない。
本当に苦しいときには、
誰かに相談していい。
支援を受けてもいい。
環境を変えてもいい。
少しずつ動ける方法を
一緒に探してもいい。
大切なのは、
「動けない自分はダメだ」
で終わらせないことだと思う。
なぜ動けないのか。
何が負担なのか。
どうすれば少し楽になれるのか。
どんな場所なら過ごせるのか。
そうやって考えていく。
それは、
本人だけの問題ではない。
周りの人や、
社会の側にもできることがある。
私は今日も、
毛布の要塞に籠城する。
世界は何も変わらない。
社会も止まらない。
我が国のGDPも、
おそらく私が寝ているくらいではびくともしない。
それでもいい。
少なくとも今日の私は、
自分を守っている。
時計を見る。
もう12時を過ぎている。
……。
革命というより、ただの寝坊だった。
最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
また次の記事でお会いしましょう。
革命家ねこパンクでした。

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