「叫ぶ、走り回る、飛び跳ねる」 公共交通機関で障がい者に向けられる冷たい視線、私たちも他人事ではない?

発達障がい

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こんにちは、ゆたです。

過去にも何度か記事にて書いたことがあったような気がしますが、私が子どもだった頃、じっとすることが極端に苦手でした。

授業中に席を立つ、おしゃべりする、教室を出ていくなんてことは日常茶飯事でした。

特に電車などの交通機関でじっとしておくことは本当に苦手でしたし、遠足などで集団でどこかに向かう時は一番後ろでゆっくり歩いてついていくのが精一杯でした。

そんな私を先生たちは、何度も叱り続けてくれました。

おかげさまで、高校生、大学生、そして社会人になっても、座り続けることができるようになりましたが、未だに電車やバスでの移動は苦手です。

私は苦手程度なので、我慢すれば座り続けることができます。

しかし、障がいを抱えた人の中には、公共の場所でじっとすることが困難な方がいます。

また、急に大声を発してしまったり、走り回ったり、パニックに陥ってしまう場合があります。

そんな方々に対してどのような配慮が必要なのか、その点について考えをまとめていこうかなと思います。

社会的バリアーを取り除くのは社会の責任?

電車

国土交通省では、『心のバリアフリー』をスローガンを中心として、いくつかの点を提唱しています。

国土交通省の提唱
  • 障がい者の社会的バリアーを取り除くのは社会全体の責任である。
  • 障がい者やその家族、または親戚が差別を受けず、合理的な配慮が受けられるようにする。
  • 国民が障がい者の困難や痛みを理解し、適切なコミュニケーションを心掛ける。

これには「障がいは心身機能との社会的バリアーとの相互作用」という考え方があり、社会全体が障がい者の生きづらさや困難を理解することが重要である、と言われています。

難しく書かれていましたが、端的に言えば、

歩けない人でも、車椅子のバリアフリーがあれば好きな場所に行ける!

脳や心にハンデがあっても、周囲の人や交通機関の仕組みに配慮があれば、一人で買い物に行ける!

ということです。

ただ国がこれだけルールを設けても現実は厳しいです。

知的障がい児を育てる親御さんのコメントでは、

「我が子は知的障害が有る為、中学校から支援学校に通っていました。ただ、叫んだり走り回ったり飛び跳ねたりじっとする事が出来ない。障害を持った子供やその親に対して、向けられる世間の目は冷たいです。その視線に耐えかねて途中下車する方も多いです」

心のバリアフリーに加えて、カーテンなどで周囲を区切ることでリラックスできる「心のバリアフリースペース」も必要ではないか、そういった意見もあります。

それに加え、障がいを抱えた方の中には、切符購入や改札入場、ホームや社内でのルールがわからず混乱することがあるといいます。

なので、公共交通機関という概念全体を理解するためのサポートも必要であるといいます。

そのため国土交通省では「公共交通機関の利用体験実施マニュアル」を作成し、利用者の体験を通して、利用促進を図っています。

そして事業所、一般向けには「発達障害、知的障害、精神障害のある方とのコミュニケーションハンドブック」を作成し、配布しています。

障がい者に対して、まず、知ってもらい、願わくば理解を深めてもらえるよう、国は動いています。

もちろん、現在では発展途中であり、一般の方々の理解はまだまだ進んでいませんが、こういった活動を献身的に続けることは必要だと思います。

参考:「叫ぶ、走り回る、飛び跳ねる」 公共交通機関の“障がい者”に向けられる冷たい視線! 今必要なのは、迅速な支援・啓発である

個人的な意見。

この記事で私は一般の方々の理解が必要だ、と書いてきました。

しかし、正直な話をしますと、健常者の方々に迷惑をかけるのはこちらとしても本意でありません。

例えばですけど、映画館で騒いでいる障がい者を見た時、皆さんならどう思いますか?

私はふざけんな、って思います。

せっかく、作品を見にきているのに、静かにしてくれ! って思うわけです。

電車でもそうです。

朝から目眠たい目を擦り、会社に向かっている時、電車で騒いでいる障がい者の方がいたら、腹が立つと思います。

なのでもちろん、健常者の方々に理解してもらいたいとは思うのですが、理解していてもタイミングによって、ストレスになるのだと思います。

なので、たとえば障がいのある方専用の空間を作るなど、お互いのストレスにならない環境を用意するのも大切な考え方かなと思います。

電車であれば、障がい者専用の車両を一つ作るとかですね。

ですが、人が多い場所、東京とか都会の方では、そんな余裕はないと思います。

なので、障がい者専用ではあるけど、健常者も乗っていいことにするのはどうでしょうか?

その代わり、この車両ではもしかしたら、パニックになる人もいるかも知れないし、騒いでいる人もいるかも知れない、そういうことに理解がある人が乗車することができるようなルールを設けるのも良いかも知れません。

健常者の中にも日々の生活で精一杯の方もたくさんいます。

他人に優しくなれない時だってあるでしょう。

そんな方々に対し、「障がい者に正しい理解を!」 なんて、とても言えません。

ですので、障がい者としてお願いできる範囲としては、『余裕があるときに、できれば助けてください』ということです。

ただ、これだとやんわりしているので、やはり、障がい者優先の空間がある方が望ましいです。

今のままでは公共交通機関だけではなく、多くの公共施設が障がい者と健常者が共有で、お互いの不満が溜まり、亀裂が深まることも考えられます。。

できる限り、多くの人々が生きやすい日本にしていくためにも、一方に偏らず、折衷案を考えることも大切なことだと私は思っています。

終わりに。

私は世の中の流れとして、障がい者に対し、差別をしないようにする意識が広がっているように思います。

それに関しては有り難いですし、私の病気も世の中に少しづつ受け入れられていければいいなって思います。

ただ、差別はしてはいけないけど、一定の配慮は必要だ、ってことになると企業や周りとの軋轢を生んでしまいかねないと思います。

それを受け入れられるほど、人間の心は簡単にできていないのではないかと私は思うのです。

なので、障がいを持つ我々が世の中に適応していく、社会で仕事をしていく、ということは、私たち障がい者側も健常者より、何倍も努力をすることが求められるではないかと思います。

障がい者は障がい者で健常者よりもできる範囲で一生懸命に努力する姿勢を見せる必要があって、健常者は健常者で、障がいを抱えた人たちをどうにか理解しようとする意識を養う必要があります。

お互いがお互い不満の対象として見るのではなく、感謝と思いやりを持った関係性を築ける社会になっていけることが日本という国での目標であってほしいし、それができる国民だと私は思っています。

最後はかなり希望的観測になってしまいましたが、以上で今回の記事を締めさせていただきます。

以上、お相手はゆたでした。

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