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こんにちは☆新人ライターあずきです。今日は、かなり重たいお話をしようと思っています。
いじめや虐待、暴力、リストカットに関する描写がありますので、精神状態が不安定な方は閲覧を控えてくださいね。
皆さん、虐待を見たことはありますか?
ひと昔前であれば、『親から叩かれた』ということは、しつけとして当たり前に受け止められていました。
ですが、今ではそうした行為も『虐待』と呼ばれる時代になりました。
今日は、そんな時代だからこそ伝えたい、私自身の人生について書いてみようと思います。
目次
Toggle可愛がられていた期間と虐待されていた期間
私には5歳離れた妹がいます。
妹が産まれるまでは、私は両親にとても可愛がられていました。
だからこそ、自分が虐待を受けるようになるなんて、当時は想像もしていませんでした。
今回は、私が実際にどんなことをされていたのか、お話ししたいと思います。
話しを全く聞いてもらえなかった小学生時代
私は小学生の頃、引っ越しのために何度も転校をしていました。
その度に学習の進み方が違い、授業には全くついていけませんでした。
交友関係もうまくいかず、4年生の時にはいじめを受けていました。
私は母に話を聞いてほしくて、「お母さん」と声をかけました。
ですが返ってくるのは、いつも「今忙しい」という言葉でした。
勇気を出して話そうとしても、
「あんたの話なんか聞きたくない」
「嘘つき」
そんな言葉ばかりが降ってきました。
反対に、妹の話はよく聞いていました。
私は幼いながらに、その差に気づいてしまったのです。
それから私は、自分の話をほとんどしなくなりました。
いじめも誰にも相談できず、自分で解決するしかありませんでした。
そしていつしか、私は『いじめられる側』から『いじめる側』になってしまいました。
ですが、自分の中で「これは違う」と思い、すぐにやめました。
悩んだ時、私は父方の祖母の家へ行っていました。
祖母は料理を教えてくれて、一緒に台所に立つ時間が私の救いでした。
それから私は、ストレスが溜まると料理をするようになりました。
ですが、そんな祖母も、私が6年生の時に亡くなってしまいました。
私の逃げ場は、そこでなくなりました。
机の上に『菊の花』を置かれていた時は、さすがに苦しかったです。
それでも私は、そのことを親に言えませんでした。
学校も、見て見ぬふりをしていました。
酒乱の父からの暴力
父は、休みの日になると遠方までドライブに連れて行ってくれるような人でした。
ですが、『お酒』が入ると別人のようになりました。
父は入退院を繰り返していたため、幼い頃の私は、父が家にいた記憶がほとんどありません。
ですが、中学校に進学した頃から、父からの『暴力』が始まりました。
きっと父は、妹に手を出せば母が反撃してくると思っていたのでしょう。
そのため、標的はいつも私でした。
父によく馬乗りになって殴られ、目の周りから全身まで、たくさんのアザができていました。
そんな生活が、18歳まで続きました。
それでも私は、学校へ行く時には笑顔を作っていました。
顔のアザは、毎日メイクで隠していました。
暴力のきっかけは、本当に些細なことでした。
「味噌汁にネギが入っていない」
ただ、それだけで暴力に発展することもありました。
限界になると、私は友人の家へ逃げていました。
ですが、逃げた先も見つかってしまい、家へ連れ戻されることが何度もありました。
そして帰宅すると、いつも以上に激しい暴力を受けるのです。
私なりの解決法〜リストカットの始まり〜
「どうして妹だけ暴力がないのか」と憤りを感じている時や、他の事でイライラしている時の解決法は『リストカット』でした。
『血を見れば落ち着く』『これは私の心の傷だ』『イライラを人に当たってはいけない』と思ってしていました。
中学時代はあまりしていませんでしたが、高校になりひどくなり、学校に行く事が難しくなりました。
今でも、腕を見られるのは嫌で、夏でも長袖を着たりしています。
左腕は、ズタズタに切り刻まれていて、包帯をいつも巻いていましたが、先生に見つかり、母を呼ばれました。
母は、学校から注意を受けると「あんた、本当にめんどくさいね。これ以上迷惑掛けるなら出ていけ」と吐き捨てられました。
父からは「ご飯がない」と17時にすごい着信履歴がありました。
私は看護科に行っていたので、8限目まで授業がありましたが、受ける事ができませんでした。
また、大分まで通学していたので、電車で4時間かかります。
私は「もう学校には行きませんので、退学させて欲しいです」と伝えると、今度は母からの『言葉の暴力』を受ける事になりました。
『結局、あんたは親父の血なんだよね。この出来損ない』
と言われました。
18歳で家出同然で博多にでました。暴力よりも、睡眠を削る方が楽だと思えました。
しかし、18歳で中卒では、なかなか給料のいい仕事がなかったので、昼夜問わず働いていました。
どうやって調べたか、わからないのですが、2年後、私は実家に連れ帰られたのです。
とにかく愛されたい一心なのです。
20歳で実家へ戻ると、私は仕事と家事をさせられるようになりました。
当時は看護助手として働いており、勤務時間は9時から18時まででした。
本当は残業で20時頃まで業務がありましたが、父が毎日のように職場へ電話をかけてくるため、帰るしかありませんでした。
20歳といえば、本来なら遊び盛りの年齢です。
ですが私は、夜に遊びへ行くこともありませんでした。
次第に友人とも時間が合わなくなり、気づけば孤立していました。
実は、定時制高校にも合格していました。
ですが、通うことはできませんでした。
遊ぶことも、学ぶことも諦め、私はただ、言葉の暴力と身体への暴力に耐える毎日を送っていました。
逃げることも諦め、ひたすら家事をして、「早く今日が終わってほしい」と願いながら生きていました。
そんな私を助けてくれる親戚は、誰もいませんでした。
そんな生活を続けていたからなのか、私は『双極性感情障害』を患いました。
(その他にも、いくつかのパーソナリティ障害があります)
それでも私は、いつか家族に愛される日が来ると信じていました。
一人の娘として、ちゃんと愛してもらえる日が来ると。
その気持ちは、今でも消えていません。
もう難しいことなのかもしれない。
絶望的なのかもしれない。
それでも私は、家族に愛されたいのです。
ただ、温かい家庭に戻りたいのです。
晩年の父からの心からの謝罪
父は『肺がん』になり、晩年はかなり弱っていました。
父のがんが見つかったのは、妹が20歳になった頃でした。
母は、もともと離婚する予定だったそうです。
ですが、医師から『余命3ヶ月』と宣告され、離婚をやめたと聞きました。
そして私は、弱っていく父の介護をすることになりました。
その時の気持ちは、とても複雑でした。
ずっと憎いと思っていた父。
ですが、弱った父の後ろ姿は、とても小さく見えたのを覚えています。
ある日、父は小さな声で、
「過去を変えることはできないけど、許してほしい。酒はやめるから」
そう呟きました。
そして父は、その言葉通り、少しずつ変わっていきました。
私が急病で苦しんでいた時には病院へ連れて行ってくれたり、まるで過去を償うように、優しい父へ戻っていったのです。
私は、娘として父を見ているのか、介護士として接しているのか、自分でも分からないまま父と向き合っていました。
父は毎日のように、
「あの時の俺はおかしかった」
そう話していました。
そして、
「ありがとう。助かった」
と、何度も私に言ってくれました。
一方で母は、相変わらず私に『言葉の暴力』を向けていました。
ですが、その矛先は父にも向くようになっていました。
そんな母の姿を見て、父は、
「こんなんにも耐えてたんか」
と、静かに言いました。
余命3ヶ月と言われていた父は、その後10年も生きてくれました。
父は最後まで、母の心ない『言葉の暴力』に黙って耐えていました。
そして、亡くなりました。
母は、父が亡くなった時、
「早く死んでくれてよかった」
と吐き捨てました。
気づけば、父だけが私を『家族』として見てくれていたのです。
私は長い間、父を恨んでいました。
ですが、10年という時間をかけて、ようやく父を許すことができました。
父が亡くなった後、遺品整理も私が行いました。
母は、一切手伝うことはありませんでした。
遺品整理を終え、仕事へ戻るため一人暮らしの家へ帰った時、母から一通のメールが届きました。
『あなたとは家族の縁を切ります。』
たった、それだけでした。
電話をかけても、繋がることはありませんでした。
完全に母から捨てられた私は、実家へ向かいました。
そして、暴れました。
テーブルをひっくり返し、皿を割り、怒りのままに動いていました。
その時の記憶は、あまり残っていません。
ただ、自分の中にあった怒りが限界を超えていたのだと思います。
当時、私はすでに精神科へ通院していました。
母が病院へ連絡し、私は医療保護入院となりました。
病院では、
「お母さんと距離を取りなさい」
そう言われました。
そして退院後、私は久留米へ引っ越してきました。
今でも、家族構成を聞かれると、心の奥から怒りが込み上げてくることがあります。
そのたびに、「私はまだ母を憎んでいるんだ」と実感します。
母のことを考えるだけで、苦しくなる日もあります。
ですが、今のパートナーのご両親には、家庭の事情を簡単に話しており、理解していただいています。
憎しみもありますが、私はあの場所に帰りたい
今は家族と離れて暮らしています。
ですが、ずっと心のどこかで思っていることがあります。
『いつか迎えに来てくれるんじゃないか』と。
「私が我慢すれば、また家に帰れるのかな」そんなことを考える日もあります。
ですが、『普通の家庭』を知らない私は、
「自分も父や母のようになってしまうのではないか」という不安があります。
自分の家庭を持つことも怖く、毎日“元気なふり”をして過ごしています。
パートナーの家庭はとても温かく、私にとって理想の家族です。
「家族と出かけてくるね」
そう言って出かけていく姿を見るたび、私は羨ましくてたまりません。
今でも時々、『言葉の暴力に耐えてでも、実家へ帰るべきなのだろうか』
そう葛藤しています。
パートナーは必死に支えてくれています。
ですが、私はまだ、どうすればいいのか分からないのです。
父が亡くなってから、身体的な暴力はなくなりました。
ですが母は、以前よりも酷くなっている気がして、怖いのです。
今回は、とても重たい話になってしまいました。
申し訳ありません。
ですが、今つらい思いをしている、そこのあなた。
あなたは、ひとりじゃありません。
勇気を出して、信頼できる人に相談してみてください。
私は、中学時代の友人や、今のパートナーに救われました。
きっと、あなたを助けてくれる人もいます。
一緒に頑張りましょう☆
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました☆
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