うつ病viviの追憶「心の叫び聞こえますか?」

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うつ病viviの追憶「心の叫び聞こえますか?」

はじめに

うつ病は誰でもなる。昨今うつ病患者は増加傾向にあります。

少しの落ち込みでも精神科にいけば、うつ病や〇〇障害と何かしら診断され誰でも障がい者になれる。

そして障害年金を申請し受給できることが決まったらそれに満足してダラダラと生活する。

勿論皆が皆そうではない。それぞれがそれぞれに様々な経験をして心に傷を負っている。

傷の深さも人それぞれ。傷を負ったまま仕事を続けることができる人もいれば、続けられない人もいる。続けられない人の中には何年も社会復帰をすることをしないで現実から逃げてダラダラとした生活を送る。私はその一人。

このままではいけないと主治医などに促されてまずは短時間働いてみる。働き先は障がい者であることを利用して就労継続支援事業所。そこでわずかな給料をもらい収入の足しにしてズルズルとその生活を続ける。

こんな生活をいつまで続け、いつまで逃げ続けるのか?

私が現実から逃げ出してしまった経緯と現在に至るまでの「心の叫び」をお話します。

あの日の出来事

あんな日が来るとは思わなかった。忘れたくても忘れられない出来事。

あんな日が来なければ仕事を続けられたかもしれない。

悔しくて悔しくて情けなくて自分に腹が立って仕方がない。

それは勤務中に起きました。そこは1年前にうつ病と診断されていたにもかかわらず、自己判断で適切な治療も受けないまま巡ってきたチャンスを全力で掴んだ仕事。

自力で立ち上がったつもりでいたので療養していたことを隠して入職しました。

しかしうつ病を甘くみてました。じわりじわりとその症状は現われて最初にうつ病と診断された時より酷くて、それでも「負けるもんか」と平常心を保つことに必死でした。

「負けるもんか」と思っていた背景には自分自身のことだけではなく、周囲からの圧力「いじめ」もありました。そしてそのことを相談する人も気づいてくれる人もいなかった・・。

そんなある日、私は責任重大な仕事に穴を開けてしまいました。

それは肝心かなめな時に心と身体のネジが止まる事態が起きてしまったのです。積んだ書類を前に心と身体が固まり涙がこぼれ席を立ち何かに誘導されるように、ぼーっとしながらそのまま帰ってしまいました。

そして周囲の思惑通りこの日から私はに奈落の底に堕ちてしまったのです。

冷ややかな視線

「うつ病と診断され精神科にかかっていることなど話さなければよかった」

ネジが止まってしまったことをきっかけに、うつ病と診断されたクリニックのドアを泣きながら再び叩きました。主治医にちゃんと治療をしなかったことを優しく怒られ、今度はちゃんと治療を受けようと決心しました。

そんなある日部長と話をする機会があり病気のことを告白しました。しかし反応はとても冷たく険悪な空気に。数日後には部長に話したことがあっというまに広がって居場所がなくなり、たった一人気にかけてくれていた人事部の人も上からの圧力があったのか私に近づかなくなり離れていきました。

頼りの保健師さんも産業医の先生も冷たく誰からも相手にされませんでした。

そして日に日にうつ病の症状は酷くなり分別がつかなくなって問題行動をするようになりました。そのたびに私に対する扱いも酷くなり追われるように退職しました。

療養生活

退職してからは主治医に「二日に一回」会いましょう(診察)と言われ、その生活を7年続けました。

ベッドから出てやっと立ち上がりやっと歩いていた私にとって、二日に一回の通院は酷。イスに座っていることもできなくて待合室では床に座り込んだり横になって寝たり。

受付にいる事務員たちが会話している声がうるさいと怒鳴ったり、レジスタのキーボードを触る時の音がうるさいと怒鳴ったり。

入院するために紹介された病院の担当医や看護師、同じ病棟に入院している患者たちと喧嘩したり。デイケアに行ってみたら、そこの職員と喧嘩したり。

私は常にイライラしていて泣いたり怒ったりの毎日。

あとはテレビが観れない(観ると疲れる・うるさい)音楽が聞けない(うるさい)本も読めない。突然体が固まる。お風呂も入れない。それでも頑張って入ってみたら、きつくてきつくて泣きながら身体を洗い湯船につかる。

一般的に不眠になると言われているけれど、そうではなく過眠。一日の大半を寝て過ごす。朝も昼も夜も。眠くてふらふらうとうと。食事をしながら寝る始末。

巡り合い

そんな私も少しずつ生気を取り戻し「生きている。私は確かに生きている」と実感するようになりました。

そんな時主治医から「働いてみよっか?」と冊子を渡され、その冊子を元に巡り合ったのが就労継続支援事業所TANOSHIKAでした。

私はこんな所があるとは入るまで知らず「就労継続支援A型(B型)事業所」なんだろう?って感じ。調べてやっとわかって思いました。「そっか、そっかあ・・。そういうところに私は入ってしまったんだな。だけどこういうところに居ることは、障害年金をもらっていること以上に人には言えない」。

しかし思いのほか私にとってとても働きやすく居心地がよくて、無理することもなく自分に嘘つくこともなく肩の力を抜いて楽に働ける。ここはそんな場所。

きついこと辛いこともあるけど、ここにきてよかった。

不平不満

かれこれ約4年ここにいます。この間TANOSHIKAも変わりました。

そして、そんなTANOSHIKAも長く居るといろんなことが目について不平不満がたまり、そのたびに苛立ち腹を立てて身体の調子を悪くさせています。

私がうつ病になってしまったことの根底にあるのは「怒り憎しみ悲しみそして自分に社会に負けてしまったことの悔しさ」恐らくこれらは一生癒えることのない傷。

この傷はいつまでもいつまでも痛くて、何かあったり感じたり何かで苛立つたりすると痛みが増して苦しくなるようになりました。

そうまでなって、どうして私はいつまでここに居続けるのか?

なぜなら残念なことに傷が痛むことがあっても、不平不満を聞いてくれる支援員さんがいて居心地がいいから。

だけどそろそろ潮時。潮時が来ているというのに私は居心地のよさに甘えて何もしない。

このままでは埒が明きません。

おわりに

どうしたらいいのだろうか?なんとかしなければ。

こんなことを考えてみた。

それは、ここを卒業しようと思えるようにならないといけないということ。

そのためにはここを嫌いにならないといけない。もう嫌だ。もう大嫌い。ここに居たくない。そう思えるようにならなければ・・。「TANOSHIKAなんて大嫌い!」とそう思えるようにならないときっと私はその気にはならない。そして本当に嫌になって嫌われてここを去る。美しい去りかたなどしなくていい。私にはそれが似合っている。

しかしそんな去りかたをするには幾つか問題があります。

やっと声をだして笑えるようになった私がまた笑えなくなるだろうということ。再び深くて暗い闇の中をさまようことになるだろうということ。

それは避けなければ。もうあんな生活に戻ってはいけない。戻りたくない。

だから慎重に。慎重に。見切り発車をしないように。

主治医に言われました。まだTANOSHIKAにいたほうがいいと。まだ早いと。

どれだけ私は社会復帰に時間をかければいいのか?

多分、私が様々なことに苛立っている間は無理なのだと思う。

怒り憎しみ悲しみ、そして悔しさが和らぐまで。あの日を忘れることができるまで。 

「私の心の叫び聞こえますか?」誰でも聞いてほしい心の叫びがある。でもその叫びは届くことはない。だけどないとわかっていても聞いてみたい。

今更だけど辛く苦しかったあの日々に私の心の叫びが誰かに聞こえていたのか聞いてみたい。

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2 件のコメント

  • 記事を読んでいて貴女と同じことを考えていました。無理に卒業する必要はないと思います。外の社会に出たいという気持ちが病気をおさえて症状が出なくなってからでも遅くはないと思います。

    • こんにちは。そうですね。どうしても焦ってしまっていろんなことを考えてしまいます。病気の症状が落ち着くまででも遅くはないですよね。いつも読んでくださってありがとうございます。

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    うつ病と闘うアラフィフ。おまけに、腰部脊柱管狭窄症!踏んだり蹴ったり。のんびり穏やかに毎日を送っていきたいと思ってます。