芥川龍之介『河童』の考察―他人をうらやむ心理と現実逃避について

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 皆さんは、他人の境遇をうらやましく思ったことはあるでしょうか。

 隣の芝生は青い――と言うように、物事がうまくいかない時、嫌な気分になった時、なんとなく今の自分に不満がある時、ふと楽しそうに過ごしている誰かの姿が目につくと「いいなあ、あの人は毎日が幸せなんだろうな」とうらやんでしまう気持ちは、誰にでもあると思います。

 しかし、自分がうらやんだ誰かが必ずしも楽しく幸せな日々を送っているとは限りません。こちら側から見えている幸せの裏には数々の苦労や困難が隠れているのかもしれないのですから。

 自分が想像しているような完全な幸福はどこにもなくて、みんな自分なりの苦難を抱えている。そんなことを考えていると、私はしばしば芥川龍之介が書いた『河童』の話を思い出します。

芥川龍之介の『河童』とは

 芥川龍之介といえば、日本の文学史に残る偉大な文豪の一人です。国語や日本史の授業で彼の著作について学んだ人も少なくはないでしょう。

 芥川龍之介は『羅生門』『鼻』『蜘蛛の糸』など多くの短編を執筆していましたが、未完成の『邪宗門』で長編に挑む姿勢を見せており、『地獄変』といった中編作品も生み出しました。

 今回取り上げる『河童』は晩年に執筆された中編作品です。

『河童』のあらすじと概要

 精神病院の患者『第二十三号』が誰にでも聞かせる話を、語り手の『僕』が書き記したという体で綴られた作品。

 序文だけは『僕』の視点で書かれているが、それ以降は『第二十三号』が語り手となり実体験をありのまま語る形で話が進む。

 物語のあらすじは、山登りの最中に河童を見つけた『僕』(第二十三号)は河童を追いかけるうちに穴に落ち、河童の国に迷い込んでしまう。『僕』は河童の国で特別保護住人として扱われ、河童との交流を通してどこか奇妙な河童の価値観や文化に触れていくこととなる――というもの。

 当時の社会を痛烈に批判した風刺作品であり、作中では河童達が人間の社会や常識の不合理さをおかしがって笑う描写が多く見られる。

河童の世界は理想郷なのか?

 『河童』は人間社会とは全く反対の常識や規範のもとで成り立っている河童の国を軸に社会を批判する風刺小説ですが、実は作品内で河童の世界は完全なユートピアとして描かれてはいません。

 例えば、河童の国では子供を養っていく余裕があるか、きちんと育てていけるか、などの「親の事情」で出産を決めるのではなく、生まれてくる直前の子供に生まれたいかどうかを尋ねて嫌だと言えば中絶をする「子供優先の出産」が当たり前になっています。

 また、機械工業の進歩で職を失った河童達は食肉に加工されたり、罪を犯した河童は「犯罪に至った理由」がなくなれば罪もなくなったとして無罪放免にされる、といった法律がまかり通っているのです。この点については、語り手の『僕』も疑問や反感を抱いたような描写がされています。

 次第に『僕』は河童の国にいるのが嫌になり、河童の国から人間の国へ戻る決心をしました。物語に区切りをつけるなら、ここで「やっぱり人間の国が一番だ、めでたしめでたし」となってもよさそうなものですが、そうならないのがこの作品の面白いところです。

人間の国に帰ってきた『僕』は事業の失敗を機に「河童の国へ帰りたい」と思い、家を抜け出して汽車に乗ろうとしたところを警察に保護されて精神病院へ入院することになりました。

 『僕』は病室にいる間もずっと河童の国やそこにいる友人を想い続けており、時折見舞いに来てくれる河童の話を序文の語り手(患者の第二十三号の話を書記する人物)に聞かせます。しかし河童が持ってきたという見舞いの花はどこにもなく、彼が読み上げる河童の詩集も傍目からは古い電話帳にしか見えないのです。

『河童』に見る理想と現実のギャップ

 河童の国で暮らした『僕』は途中で嫌気が差して河童の国を去るものの、人間の国に戻った後は河童の国が恋しくなりました。作中の『僕』はまるで故郷のように懐かしく思われる河童の国に帰ることもできず、人間の国の病院で河童の国に想いを馳せる日々を送っています。

 当時の社会を批判した風刺小説だから「やっぱり人間の国が一番」とならないのは当たり前なのかもしれませんが、それならば河童の国を人間の国とは違う完全な理想郷として書かなかったのはなぜなのでしょうか。

 私はこの疑問点について、『僕』の河童の国への旅は単なる逃避に過ぎないからだと解釈しています。

 作中において、『僕』の話はあくまで嘘か真実かはっきりしないような描写がされています。そのため、『僕』の話が実体験だった場合と単なる空想だった場合の2通りの解釈を載せておきましょう。

河童の国が本当にあった場合

 仮に『僕』の話が事実だったなら、河童の国や彼が出会った河童達もまた実在しているということになるのでしょう。そうなると、河童の国が理想郷でない理由は明らかです。河童の国は河童に合わせて発展した国なので、人間が住みやすいようには作られていないのです。

 特定の誰かに合わせて作られたものは、他の誰かが使ったり見たりした時に不便に感じたり不合理に思えたりすることが多々あります。一般的な河童の感性に沿って設計された河童の社会は、河童でない『僕』からすれば自分に適さない部分が多かったのでしょう。

 しかしながら、河童の国は人間でなく河童ならば一生快適で幸福な生活を送れるかというと、それもまた違うようです。河童の国にも戦争があり、病があり、失業があり、不幸があります。それらの不都合を河童達は「当たり前のこと」と受け止めているらしく、たいして問題にしてはいません。

 河童達の思考は人間からすればいやに合理的で、ある種冷淡にも見えます。河童達がたいして気に留めない社会のほころびを見て『僕』はだんだんと嫌気が差し、ついに人間の国へ戻りました。ところが河童の国に長らくいた『僕』にとって人間は不潔で醜悪に見え、いつしか「河童の国へ帰りたい」と願い始めるのです。

 『僕』の心変わりは、おそらく現実逃避から来るものと考えられます。河童の国の嫌な面が目につくようになった『僕』は人間の国に戻りましたが、そこで事業の失敗という大きな困難に直面したために河童の国へ帰りたがります。

 これは「隣の芝生は青い」心理によるものでしょう。河童の国に留まるのが憂鬱になった時は人間の国を恋しく思ったけれども、人間の国で嫌なことがあれば今度は河童の国に心を惹かれる――もし『僕』が河童の国に戻れていたとしても、「人間の国で暮らすよりはましだ」と河童の国の嫌な部分に目をつぶりながら暮らしていたかもしれません。

河童の国が空想だった場合

 一方、河童の国が『僕』の見た幻であると考えると、また違った解釈が生まれてきます。

 そもそも、『僕』はなぜ河童の国という幻を見るようになったのか。それは、やはり現実逃避が原因ではないかと私は考えています。

 元々『僕』は現実の生活に対して不満を抱えており、ある時「こことは違う環境なら、自分はもっと快適に生きられるのかもしれない」と考えて、現実の世界とは何もかもが正反対の世界――河童の国を頭の中で思い描いたのではないでしょうか。

 河童の国において『僕』が特別保護住民として扱われ、働かずとも悠々自適に生活できる特権を与えられているのはこうした願望から来るものかもしれません。

 では、自分が願ったはずの理想の世界になぜ『僕』は嫌気が差して離れてしまったのか。それはおそらく、「都合の良い世界」を上手く作り出せず、空想に浸ることに疲れてしまったからではないでしょうか。

 現実に不満を持った僕は、「こんな風にすればもっと合理的じゃないか」と現実世界の悪い点を取り除いた空想の世界、「河童の国」を作りました。作中の河童達が口にする人間社会への批判は、おそらくは『僕』自身の考えを空想の存在に言わせていただけだったのでしょう。

 しかし、現実世界の欠点を取り除いた世界には新たな不満点が現れ始めました。不合理をなくして合理化したはずの世界は『僕』にとって住みよい世界にはならず、結果として不完全に終わってしまったのです。

 自分ならもっと良い世界にできる、と思って作った河童の国がいびつな理想郷になってしまい、空想を続けるのが嫌になった『僕』は空想をやめて現実へ向き直ることにしました。中途半端に直してあんな世界になるくらいなら、欠点だらけの現実の世界のほうがまだましだ――と、そんなことを思ったのかもしれません。

 ただ、空想が嫌になったとはいえ『僕』は現実の世界に戻るのにいくらか抵抗があったようです。『僕』が年老いた河童に人間の国への戻り方を教えてもらう場面からは、彼のためらいが読み取れます。

「しかし僕はふとした拍子に、この国へ転げ落ちてしまつたのです。どうか僕にこの国から出て行かれる路を教へて下さい。」

「出て行かれる路は一つしかない。」

「と云ふのは?」

「それはお前さんのここへ来た路だ。」

 僕はこの答を聞いた時になぜか身の毛がよだちました。

(中略)

「ではあすこから出さして貰ひます。」

「唯わたしは前以て言ふがね。出て行つて後悔しないやうに。」

「大丈夫です。僕は後悔などはしません。」

 この場面で年老いた河童の言葉を聞いて、どうして『僕』は身の毛がよだつ思いをしたのか。年老いた河童が「後悔しないように」と告げた理由は何か。それは年老いた河童が、『僕』の中の理性的な部分の象徴だからでしょう。

 空想から逃げたいと願った『僕』は、現実に戻ってもまた以前のように不満を抱えたまま生きてゆかなければならないと薄々気付いていました。年老いた河童の言葉は、『僕』がこれから戻ろうとしている現実が空想に浸り始めた頃と何一つ変わっていないことを示唆しています。だからこそ、年老いた河童は『僕』に後悔しないようにと呼びかけたのです。

 一方、現実に向き直る決意をした『僕』は現実への不満をどうにかこらえながら生活していました。人間の国に戻ってきた『僕』が人間への嫌悪をあらわにしているのは、『僕』がそもそも空想に逃避し始めた理由が他人にあることを暗に示しているのかもしれません。

 しかし、事業に失敗してとうとう現実のつらさを我慢しきれなくなった『僕』は、再び河童の国への現実逃避を始めました。それ以前から河童の言葉を現実で口走ってしまうなど、夢と現実の境目があやふやになっていた『僕』は空想の存在でしかない河童の国に帰ることを強く望むようになり、架空の友人である河童達の幻を見て現実に傷ついた心を慰めるのでした。

 『僕』が物語の最後に語った「失業して気が狂ってしまった河童の友人」の話は、もしかすると現実の自分を投影したものかもしれません。

まとめ―『河童』は私達に向けた皮肉かもしれない

 芥川龍之介の『河童』は当時の社会に向けた風刺作品という認識が一般的ですが、『僕』の逃避に対してスポットを当てると、また違ったメッセージが読み取れるように思います。

 私達人間は何らかの問題に直面した時、強い意志を持たなければつい楽な道を選んでしまう傾向にあるそうです。自分のいる環境が悪いと思った時、環境を変えるのに多大な労力が必要ならば変えることを諦めてその環境から逃げ出すか、あるいはただ我慢してしまうのです。

 逃げ出すことも変えることもせず、恵まれて見える他人を「いいなあ」とうらやむだけの怠け者の人間達。『河童』という作品には、他人をうらやむばかりで何もしない人への痛烈な皮肉も込められているのではないでしょうか。

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