私がTANOSHIKAにたどり着くまで

線路を風船を持って歩く女性

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私がTANOSHIKAに来るまで

2年前、私は家電量販店で携帯電話の販売員をやっていました。

仕事は3年目を迎え、決して順調とは言えませんでしたが、なんとか働いていました。

その頃、逃げるように実家を離れました。

アルコール依存症の妹と、難病で寝たきりの母、アルコール依存を経て、肝臓ガンになった父…

のしかかる家族間の問題で、私は精神的に限界だったのです。主治医のアドバイスもあり、一人暮らしを始めたのですが、始めて間も無く、相次いで両親が持病で亡くなってしまいました。

そして私自身も金銭面などで問題を抱えていたのですが、誰にも助けを求めることができませんでした。そんな色々な出来事が重なり、ある日突然、外に出られなくなったのです。

外出できなくなる少し前から異変はありました。

例えば、運転中に急に涙が止まらなくなり、号泣しながら仕事へ行ったり、不安発作でトイレに閉じこもってしまったり…

その頃は、とにかく他人の視線が怖くて仕方なかったのを覚えています。

その日は、10月の半ばぐらいでした。

仕事に行かないと、と準備をして玄関で靴を履こうとして、

 

…靴が履けない。体が動かない。

 

その時は、体が動かないこともですが、靴が履けないという事態にパニックになってしまい、「とにかくドアを開けて。仕事に行かないと遅刻だ」と焦っていると、涙が溢れて止まらなくなり、玄関に座り込んでしまい、何もできないまま出勤の時間になってしました。

その日から仕事に行けなくなり、休職したのちに退職しました。

仕事を辞めた頃の記憶は、ぼんやりとしていて、ほとんど覚えていないのですが、その頃になんとか会っていた役所の支援員さんは、「疲れ果てていたよ」とおっしゃっていました。

外出がほとんどできなくなりました。

他人の視線が怖くて、全然知らない人でも、私のことを責めているように感じてしまい、人の集まる場所が恐怖でした。

そうなると、コンビニすら行けなくなり、仲の良かった友人たちとも会えなくなりました。

人に会わずに2ヶ月は、寝て過ごしてしました。今考えると、食事などはどうしていたんだろうと思います。(生きているので何かしら食べていたのかな?)

そんなドン底な生活のなかでも、絶対にしないと決めていたことがります。

お酒を飲まないことです。

働いていた頃は、月に1回ほど飲酒していました。(お酒は好きです)

しかし、私の父と妹はアルコール依存で、父は亡くなってしまいましたが、妹は治療中です。

アルコール依存の親を持つ子供が、同じアルコール依存や、別の依存症になる割合は高いことがデータとしてあります。

悲しいかな。私も依存症になる確率は高いのです。

なので、健康だった頃も、人一倍飲酒には気をつけていました。

アルコールでボロボロになっていく家族を見ていたので、ああはなりたくないと恐怖からのことでした。

そこからは、ゆっくりと芋虫のように這い出し、行政や福祉の助けをかりながら、生活を取り戻していきました。

前職を辞めて2年がたった頃、“働こうかなぁ”と思えるようになりました。

いざ働こうと決めたのですが、あまりにもブランクが空いてしまっていること、体調面も万全ではないこともあり、ハローワークで「就労継続支援A型」というものを教えてもらいました。

偶然にも、身近な人が利用していたこともあり、なんとなく存在は知っていました。

何ヶ所か見学をさせてもらい、最後に見学したのがTANOSHIKAでした。

2年も引きこもっていた私は、こんなに優しくしてもらっていいのだろうか。と思ってしまうほど、TANOSHIKAは優しく受け入れてくれました。

以前と同じように働けないかもしれないですが、ここから再スタートを始めようと思います。

 

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