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今回は、ふとしたときに思いついた言葉を、
少しずつ発展させながら記事を書いてみました。
「障がい者にカレーを食べさせる。」
こう書くと、なんだか妙な文章に見える。
いや、かなりおかしな文章だ。
そもそも、なぜ「障がい者にカレーを食べさせる」のだろう。
……いや。
正確には、誰かに食べさせてもらう必要がある人もいる。
手がうまく動かせない人。
食事をすること自体に介助が必要な人。
それは障がいの有無に関係なく、必要な人には必要な支援だ。
でも、今回ここで言いたいのは、そこではない。
「障がい者」という言葉がついた瞬間、
私たちはその人を見る目を、少し変えてしまうことがある。
障がい者だから、
特別な配慮が必要。
障がい者だから、
何か特別なことをしてあげなければならない。
障がい者だから、
何か「感動する物語」を求めてしまう。
……本当にそうだろうか。
私はカレーが好きだ。
特に、スパイスの香りが好きである。
あの香りを嗅ぐと、無性にカレーが食べたくなる。
暑い日に汗をかきながら食べるカレーもいい。
辛さにやられて、水を飲みながら食べるのもいい。
食べ終わったあと、
「ちょっと食べすぎたな」
と思うこともある。
そこに、障がいは関係ない。
私がカレーを食べているとき、
私は「障がい者としてカレーを食べている」わけではない。
腹が減ったから食べる。
美味しいから食べる。
食べたいから食べる。
それだけだ。
もちろん、
障がいによっては食事に特別な支援が必要になることはある。
食事をするために、介助や道具、環境の工夫が必要な人もいる。
そうした支援は、きちんとあっていい。
むしろ、必要な支援があるなら、
遠慮なく受けられる社会であってほしい。
ただ、
「支援が必要な人」と「何でもしてあげなければならない人」は違う。
ここを混同してしまうと、
いつの間にか本人の意思まで置き去りになってしまう。
何を食べたいのか。
どこで食べたいのか。
誰と食べたいのか。
辛いものが好きなのか。
甘口が好きなのか。
そもそも、今日はカレーを食べたいのか。
そんなことを決めるのは、その人自身でいい。
もちろん、本人だけで意思を伝えたり、
決めたりすることが難しい場合もある。
そのときは、
本人との意思疎通をできる限り工夫したうえで、
表情や反応、
これまでの生活や好みなど、
さまざまな情報から本人の意思や希望をできるだけくみ取り、
周囲が支えていくことが必要になる。
大切なのは、
「障がいがあるから、こちらが決めてあげる」
ではなく、
「その人が決められるように支える」
ことなのだと思う。
障がいがあるからといって、
人生のすべてに「障がい者」という注釈をつける必要はない。
カレーを食べる。
映画を見る。
音楽を聴く。
猫と暮らす。
仕事に行く。
疲れて帰ってきて、ソファに寝転がる。
腹が立つ。
笑う。
落ち込む。
くだらないことで喜ぶ。
そこには、「障がい者」という文字は一ミリも関係ない。
そういう一つひとつが、人間の日常なのだと思う。
障がいについて考えることは大切だ。
社会の中にある困りごとを知ることも大切だ。
必要な支援を整えることも大切だ。
でも、
その人を「障がい」という一つの言葉だけで見ないことも、
同じくらい大切なのではないだろうか。
以前の記事でも書いた。
障がいは、その人の一部かもしれない。
けれど、
その人の全部ではない。
だから私は思う。
「障がい者にカレーを食べさせる」のではない。
カレーを食べたい人が、カレーを食べられる社会であればいい。
必要なら、
本人の希望に沿って誰かが手伝えばいい。
食べるための道具が必要なら、それを使えばいい。
環境を変える必要があるなら、変えればいい。
でも、
その先にいるのは『障がい者』という記号ではない。
カレーを食べたい一人の人間だ。
何を食べるかくらい、自分で決めたい。
そんな当たり前のことが、
障がいがあるという理由だけで難しくならない社会
であってほしい。
……まあ、
私は今日も自分でカレーを食べる。
そして、
「美味しかった」
と満足するだろう。
障がい者だからではなく、
ただ、カレーが好きな一人の人間として。
参考元 : (厚生労働省) 障害福祉サービス等の提供に係る意思決定支援ガイドライン(第2版) 改訂の背景とポイント(PDF)
参考元 : (こだわりシェフ)【障害者施設の食事支援】課題とQOL向上のための取り組みとは?2022/11/20
最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
また次の記事でお会いしましょう。
ねこパンクでした。

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