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毎年、夏になると「感動」がやってくる。
障がい者が挑戦する。
病気と向き合う人が笑顔を見せる。
「頑張れ」という声が響き、多くの人がテレビの前で涙を流す。
私は、その光景を見るたびに思う。
この感動は、本当に誰のためにあるのだろう。
障がいがあるから感動する。
病気だから応援する。
もしそうだとしたら、
それは、本当にその人自身を見ていることになるのだろうか。
もちろん、私は感動そのものを否定したいわけではない。
映画『レインマン』や『最強のふたり』は何度も観た。
そのたびに心を動かされ、涙を流した。
誰かを応援することも、寄付をすることも素晴らしいことだと思っている。
だから私は、「感動すること」が悪いと言いたいのではない。
ただ、年に一度だけ「頑張る姿」を映し出し、
涙を誘って終わってしまうのなら、そこに少し違和感を覚える。
番組が終われば、テレビは次の話題へ移る。
けれど、彼らの日常は変わらず続いていく。
バリアフリーの問題。
就労の問題。
偏見や無理解。
そして、現実に存在する差別。
そうした課題は、翌日になれば話題になることも少ない。
気づけば、忘れ去られてしまうこともある。
障がい者は、感動を届けるために生きているわけではない。
私たちと同じように笑い、怒り、悩み、働き、恋をし、日々を生きている。
本当に必要なのは、
一日限りの感動ではなく、三百六十五日の理解なのではないだろうか。

私は障がい者雇用についても、疑問を感じることがある。
身体障がい者に比べ、精神障がい者は理解されにくいと感じる場面が少なくない。
見た目では分からない。
だから、「普通に働けるでしょう」と思われてしまう。
見えないからこそ、苦しさも理解されにくい。
一般就労が難しく、就労継続支援A型事業所という選択をする人もいる。
そこでは農作業や単純作業、体力を必要とする仕事に携わる人も少なくない。
もちろん、それがその人に合っている場合もある。
しかし、私はリウマチを患っている。
農作業や肉体労働は難しい。
それでも、「単純作業ならできるでしょう」と言われたことがある。
その言葉を聞くたびに、胸に浮かぶ問いがある。
あなたは、同じ単純作業を最低賃金で何年も続けられますか。
仕事は、「働ければいい」というものではない。
その人の身体や心、能力や適性に合っていてこそ、長く続けられる。
障がい者雇用とは、本来そういう視点で考えられるべきではないだろうか。
先日、バスで帰宅していたときのことだった。
杖をついた高齢の方が乗ってきた。
おぼつかない足取りで、何とか車内へ入ってくる。
車内は満席だった。
私は立っていた。
それでも、誰も席を譲ろうとしない。
しばらくして、運転手さんがマイクで呼びかけた。
「どなたか席を譲ってくださいませんか。」
その声に応えたのは、一人の学生だった。
静かに立ち上がり、席を譲る。
私はその姿を見て、ほっとした。
同時に、少し寂しくもなった。
困っている人を思いやることは、特別なことではない。
テレビの中だけにある感動ではなく、
こうした日常の小さな行動の積み重ねこそが、
本当の意味での「理解」なのではないだろうか。
障がい者に本当に必要なのは、
「頑張っていて偉いですね」
という言葉ではない。
特別扱いでもない。
当たり前に学び、
当たり前に働き、
当たり前に暮らし、
困ったときに、自然と支え合える社会。
そんな社会こそ、私たちが目指すべき姿ではないだろうか。
感動は、人の心を動かす力を持っている。
だからこそ、その感動を一日で終わらせてはいけない。
涙を流したのなら、その翌日に誰かを思いやる。
困っている人がいたら手を差し伸べる。
違いを知り、理解しようとする。
そんな小さな行動が積み重なって、社会は少しずつ変わっていくのだと思う。
感動は、一日で終わる。
理解は、三百六十五日の積み重ねで生まれる。
感動は、出発点であって、ゴールではない。
私は、感動よりも理解が広がる社会であってほしいと願っている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
また次の記事でお会いしましょう。
ねこパンクでした。
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