感動は誰のためにあるのだろう【ねこパンク】

黒猫がテレビを眺めている画像

この記事は約 4 分で読むことができます。

ねこパンクロゴマーク

毎年、夏になると「感動」がやってくる。

障がい者が挑戦する。
病気と向き合う人が笑顔を見せる。
「頑張れ」という声が響き、多くの人がテレビの前で涙を流す。

私は、その光景を見るたびに思う。

この感動は、本当に誰のためにあるのだろう。

障がいがあるから感動する。
病気だから応援する。

もしそうだとしたら、

それは、本当にその人自身を見ていることになるのだろうか。

もちろん、私は感動そのものを否定したいわけではない。

映画『レインマン』や『最強のふたり』は何度も観た。
そのたびに心を動かされ、涙を流した。

誰かを応援することも、寄付をすることも素晴らしいことだと思っている。

だから私は、「感動すること」が悪いと言いたいのではない。

ただ、年に一度だけ「頑張る姿」を映し出し、

涙を誘って終わってしまうのなら、そこに少し違和感を覚える。

番組が終われば、テレビは次の話題へ移る。

けれど、彼らの日常は変わらず続いていく。

バリアフリーの問題。
就労の問題。
偏見や無理解。
そして、現実に存在する差別。

そうした課題は、翌日になれば話題になることも少ない。

気づけば、忘れ去られてしまうこともある。

障がい者は、感動を届けるために生きているわけではない。

私たちと同じように笑い、怒り、悩み、働き、恋をし、日々を生きている。

本当に必要なのは、

一日限りの感動ではなく、三百六十五日の理解なのではないだろうか。

 黒猫がパソコンに何かを打ち込んでいる画像

私は障がい者雇用についても、疑問を感じることがある。

身体障がい者に比べ、精神障がい者は理解されにくいと感じる場面が少なくない。

見た目では分からない。

だから、「普通に働けるでしょう」と思われてしまう。

見えないからこそ、苦しさも理解されにくい。

一般就労が難しく、就労継続支援A型事業所という選択をする人もいる。

そこでは農作業や単純作業、体力を必要とする仕事に携わる人も少なくない。

もちろん、それがその人に合っている場合もある。

しかし、私はリウマチを患っている。

農作業や肉体労働は難しい。

それでも、「単純作業ならできるでしょう」と言われたことがある。

その言葉を聞くたびに、胸に浮かぶ問いがある。

あなたは、同じ単純作業を最低賃金で何年も続けられますか。

仕事は、「働ければいい」というものではない。

その人の身体や心、能力や適性に合っていてこそ、長く続けられる。

障がい者雇用とは、本来そういう視点で考えられるべきではないだろうか。

黒猫が小箱の中身を仕分けしている画像

先日、バスで帰宅していたときのことだった。

杖をついた高齢の方が乗ってきた。

おぼつかない足取りで、何とか車内へ入ってくる。

車内は満席だった。

私は立っていた。

それでも、誰も席を譲ろうとしない。

しばらくして、運転手さんがマイクで呼びかけた。

「どなたか席を譲ってくださいませんか。」

その声に応えたのは、一人の学生だった。

静かに立ち上がり、席を譲る。

私はその姿を見て、ほっとした。

同時に、少し寂しくもなった。

困っている人を思いやることは、特別なことではない。

テレビの中だけにある感動ではなく、

こうした日常の小さな行動の積み重ねこそが、

本当の意味での「理解」なのではないだろうか。

黒猫が車椅子のシートでくつろいでいる画像

障がい者に本当に必要なのは、

「頑張っていて偉いですね」

という言葉ではない。

特別扱いでもない。

当たり前に学び、

当たり前に働き、

当たり前に暮らし、

困ったときに、自然と支え合える社会。

そんな社会こそ、私たちが目指すべき姿ではないだろうか。

 

感動は、人の心を動かす力を持っている。

だからこそ、その感動を一日で終わらせてはいけない。

涙を流したのなら、その翌日に誰かを思いやる。

困っている人がいたら手を差し伸べる。

違いを知り、理解しようとする。

そんな小さな行動が積み重なって、社会は少しずつ変わっていくのだと思う。

感動は、一日で終わる。

理解は、三百六十五日の積み重ねで生まれる。

感動は、出発点であって、ゴールではない。

私は、感動よりも理解が広がる社会であってほしいと願っている。

ねこパンクのロゴマーク

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また次の記事でお会いしましょう。

ねこパンクでした。

HOME

 

黒猫がテレビを眺めている画像

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です