あずきの☆家族にとっての存在価値

あずきが3段のメリーゴーランドの夜景写真を撮っている後姿

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こんにちは☆新人ライターあずきです。

今日は、「家族にとっての私の存在価値」についてお話ししたいと思います。

また、重たいお話しになってしまいますので、気分が安定していない方は閲覧を控えてくださいね!

私は生まれてきてよかったのか?

以前、私は母から「あんたなんか産まなかったらよかった」と吐き捨てられたことがあります。

家族にとって私はどんな存在っだったのか、当時言われた事などを交えてお話ししたいと思います。

この記事で、私のフラッシュバックが治る事を願いながら書きたいと思います。

母方の祖母から見た私

母方の祖母の家庭は優秀な家庭です。

兄弟は皆、東京の有名大学を卒業し、祖母も薬剤師です。

祖母は「学歴主義者」でした。

息子(私からみて叔父)も医師になり、申し分ない子になりました。

娘(私から見て母)は弁護士を目指し大阪の学校に行っていました。

しかし、母が20歳の時、祖父が亡くなり、北九州に帰ってきたそうです。

弁護士を諦め、薬剤師の学校に編入したそうですが、国家試験に落ちてしまった様です。

そのため、私は出来損ないの娘の孫。

どうしても、息子の子供と比較している様です。

祖母は、父の事が大嫌いでした。

なぜかと言うと「中卒だから」です。

学歴がない男に、嫁ぐ事になった時はかなり反対したそうです。

そして、生まれた孫。

初孫の私はかなり期待していたそうです。

「頭がよくなる様に」と英才教育で「ピアノ」の教室に入れられました。

そして、音大に行ける様にと、小学5年生の時に「フルート」を購入し、また音楽教室に入れました。

ピアノ教室に入学したのは幼稚園の年長位だったと思います。

音符を読めない私は、毎回手をペンで叩かれていました。

そんな祖母が大嫌いでした。

大きな音楽会に出ている私を見て「誇らしかった」と母に言っていたそうです。

音楽教室を辞める時は、母をかなり責めていたそうです。

「辞めさせたら音大にいけない」と会う度に言っていたそうです。

私には「音大」に行って欲しかったみたいです。

そんな私が中卒になった時、祖母は怒りました。

「やっぱり、あいつの血が入ってるから、勉強できやしない」

と言われました。

その時、私は「やっぱり学歴主義やな」と思いました。

確かに中卒かもしれません。

でも、これは私の人生。他人にとやかく言われたくないと思いました。

交際している相手にも「どこの大学?」と毎回聞いていました。

そんな祖母も96歳。

認知症が進行し、今は、息子が経営している老人ホームに入居しています。

私は、祖母から「会いたくない」と言われているので、面会は行っていません。

そして、会わないまま他界しました。

父からみた私、私から見た父

以前お話ししたのですが、私はあまり幼少期の父の記憶がありません。

肺が弱く、入退院を繰り返していたためです。

父にとって母は「再婚相手」になります。

以前の奥様の所には男の子が3人おり、私と同い年の「孫」がいます。

あずき家にとって、初めての女の子。

それはそれは可愛がられました。

髪の毛の手入れも父の仕事でした。

父が「いいよ」と言うまで髪を切ることができませんでした。

しかし、お姫様のような子供にはならず、性格は「男の子なみに勝気で、喧嘩っ早い娘」になってしまいました。

それが続いたので、私の髪の毛の手入れを辞め「喧嘩してな泣くなら、やり返せ」と言う育て方をしだしました。

男の子が好きな「魚釣り」も教えてくれて一緒に行く事が多かったです。

そして、第二子を授かりましたが、早産で、未熟児。

1800gで生まれ、目も開いていない状態で生まれ、大きな病院で入院しました。

適正体重になり退院してきて3日目に「はしか」にかかり、再度入院し、父は仕事が終わると、毎日面会に行っていました。

浮気現場も見てしまい修羅場だった事を思い出します。

小・中学生の時の運動会は、朝早くから、場所取りをしてくれていたのを覚えています。

お酒がなければいい父親だったと思います。

 

それでも、お酒に溺れ、「暴力的」になりました。

晩年は優しい父になりました。

しかし、私は「絶対許されないルール」をやってしまいました。

ここでは、その話しはできませんが、父は「やると思った」と言って笑っていました。

あんな笑顔をみたのは何年ぶりでしょうか。

父を看取れて、私は「介護士になってよかった」と心から思いました。

母から見た私、私から見た母

手作りのレジンで作ったカメラ

 

母は、第一子の私を可愛がってくれました。

写真も沢山あり、写真のアルバムのコメント欄には一枚ずつ一言日記が書いていました。

生まれてきた時に私に宛てた手紙も貼ってありました。

父に宛てた手紙もありました。

最初は「大切にされていたんだ」と思いました。

しかし、幼稚園に入園したあたりから(年長さんから通い始めました)一言日記はなくなり、また、写真の整理すらしてもらえませんでした。

妹が産まれて、病気も沢山あり、心配だったのでしょうか。

私の事より、妹を大切にしていました。

何よりも妹優先。

妹が高校に行き出しても一緒に寝る程可愛がっていました。

私には「お姉ちゃんだから、自分の事は自分でしなさい」

と幼い頃、よく言われました。

 

しかし、高校受験が近づいてきた時、母は変わりました。

「看護学校を受験しなさい!それ以外はお金出しません!」

私は、調理科か普通科に行きたかったのですが、進路は、私で決められませんでした。

 

弟の家庭は、小・中・高のエスカレーター式の私立学校に進学しました。

弟の子供とよく比較されていた事をよく覚えています。

「◯◯ちゃんはちゃんとできてるんだよ!私の子供だから頭悪いわけない!」

とよく言われたものです。

確かに母は、いい高校に行っていました。

結核にかかり入院した時、単位が足りず、進級試験を受けなければならなかった時、1発合格したそうです。

しかし母は「留年して勉強したかった」と言っていました。

 

そして、私は看護学校に合格しました。

滑り止めで受けた大分の学校でしたが、そこに入学する事になりました。

周りの先生方(塾の講師も含め)「あずきは文系だから、理数系に行ってもついていけない」

と母に忠告した様ですが、母は周りの意見を聞かず、大分の学校に入学金を払い、入学が確定しました。

勉強についていけず、ケータイには父からのすごい量の不在着信、親から殴られた体の傷、自傷・・・。

授業もまともに受けられず、私は退学を決めました。

 

その時、私は「精神科に行きたい」と言ったのですが母から「あんな変な人たちのおる所には行かせない。余計バカになる」と言われ受診できませんでした。

すごく昔の考え方で、自分の言っている事が全て正しいと思っている母です。

 

看護科は、一般教科が、普通科より遅い、もしくは中学レベルの事しか教えないため、転校はできませんでした。

母と取り決めた「退学したら、介護の資格をとり従事する事」を選びました。

仕事をしながら、もう一度看護学校に行くか真剣に悩みました。

しかし、定時高校に行く事にし、授業を受けようと思いましたが、仕事をしていた事もあり、父親の夕食を作らなければならず、進学する事は辞めました。

受験は合格していましたが・・・。

母から見た私はただの出来損ない。

「父にそっくりで見たくない・底辺の人間・産まなければよかった子」と何度も言われました。

「産まなければよかった子」と言われた時、私は自殺未遂を起こしました。

流石にきつかったです。

警察にも本当の理由も話せず、適当に誤魔化しました。

母は私が憎くて仕方がなかったのでしょう。

父親に似た顔、性格、全て、むしろ私の存在自体が気に入らないのだと思います。

私を必要とする時は「入院して保険がおりる時だけ」です。

ヒステリックな母親。

最近、私は母に似てきました。

感情のコントロールもできない。

そんな私に優しく手を差し伸べてくれたのが、パートナーとパートナーの家族でした。

退院前、私は「母の殺人計画」を立て、看護師に見つかり、担当医師から「引っ越ししましょう」

と言われ、今、久留米にいます。

妹から見た私、私から見た妹

妹が保育園に行き出したのは1歳頃からでした。

妹はいつも私の後についてくる様な子供でした。

私が遊びに行こうとすると着いてくるので、仕方なく一緒に遊んでいました。

夏休みの私の仕事は子守でした。

毎日、昼食を作り「おやつ」と言われれば、ある物で何かを作っていました。

高校からは母とよく出かけていましたが、私は放置。

そして、高校を卒業して数年後に高校の時から交際していた方と結婚しました。

私には、学歴や進路の事を色々勝手に決めていた母でしたが、妹には自由にさせていました。

結婚して、春日に引っ越しをし、何度か遊びに行ったと思います。

色々あり離婚し、妹は双極性感情障害になり入退院していました。

妹の入院や、精神科を受診する事はあっさり承諾していました。

妹と私はその時まで「仲の良い姉妹」でした。

時間があれば、カラオケに行ったり、心霊スポットに行ったり、夜釣りに行ったり・・・。

仲が悪くなったのは私が精神科に行き出した頃です。

「真似してる」

と母や妹からよく言われました。

それから、口を聞かなくなりました。

妹も私の事を罵っています。

私は妹にとってもいらない存在なのです。

「一人っ子がよかった」と言われた事があります。

その時は「時間を返せ!」と思いました。

仕事と家族

高校を中退してすぐ、叔父の経営するクリニックに入社しました。

私は母と父のいない、行橋市の分院で「看護助手」をしていました。

そしてある日、私は「帯状疱疹」にかかり、治療後も右手の神経痛が引かず、デイサービスに異動になりました。

私が異動してすぐ、母が同じクリニックに異動してきました。

その当時、私は介護は未経験でした。

 

色々、デイサービスの職員が母に私の事を言っていた様です。

「仕事ができない」

私は、何も教えて頂いていませんでした。

教えて頂いた事といえば、入浴用のリフトの操作でした。

 

私は必死に自分なりに頑張って覚えていたつもりです。

それでも頑張りが足りなかったのでしょう。

母に職員が言った日は「機嫌が悪く、人にあたる事」が多かったです。

家族経営の職場は色々あるのでおすすめしません。

 

最後に働いていた、叔父の経営する老人ホームでは、他の施設で色々経験し、介護士目線で見る事ができる様になっていましたので、頑張って働いていました。

しかし、「グレーゾーン」なので、上司の指示がわからない事もあり、そこも「仕事ができない」と言われていました。

 

私がある程度経験を積んだ時、その職場に母が転勤してきました。

私がしている仕事を母は覚えないといけなくなり、そこで私ができている事が気に入らなかった様です。

50代で施設勤務になり、体力が以前よりも無くなっている母はその事も気に入らなかった様です。

その度、母は私に以前よりも激しい「言葉の暴力」を浴びせる様になりました。

それでも、私は「母が定年になるまで頑張らないと」と優しい気持ちで仕事をしていました。

そんな事はお構いなしに母の「言葉の暴力」は激しかったです。

そして、足の怪我、精神状態の不安定で母から

「これは役員命令です。退職しなさい」

と言われ、私は退職しました。

家族に翻弄された人生でした。

私の青春は家族に翻弄されて生きた人生でした。

今は家族から離れて生活しているので、気分的に楽になりました。

親から離て、第二の人生が始まったのだと思っています。
私を支えてくれるパートナーやご家族には感謝しています。

しかし、問題はいくつもあります。

入院した時の緊急連絡先や、手術の立ち会いはどうするものなのか。

精神科は、理由をわかってくれているので、パートナーがキーパーソンになっています。

しかし、内臓系で、手術が必要な時、立ち会いがどうしても必要になります。

そんな時どうすればいいのか・・・。

今回は、色々な視点で家族について考察してみました。

 

この記事を書いて、少し気持ち的に楽になりました。

皆さんはご家族を大切にされていますか?

家族はかけがえの無い存在です。

私みたいにならないでくださいね☆

少し重たい記事になり申し訳ありません。

また、次の記事でお会いできたらいいなと思います☆

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