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これまで私の自分史(幼少から高校)について書きました。家族の愛情に飢えていた私には、わずかな温もりと思いやりでも嬉しく思ったのかもしれません。
ここから社会人として歩いていくのですが、ここでも嫌な思いしたり人にさせていた可能性もあります。
憧れの大都会へ旅立ち・・・・
私は田舎の暮らしにも疲れていて、遠くへいけば何か変われるかも?という強い気持ちでいきました。しかし、私の体験の薄さから理解してくれる人は少なく、喜怒哀楽の感情を顔に出すことがあったのです。人の性格は簡単には変えられないとその時知りました。
また、職場のいろんな人にお茶を出していただけでしたが、他の人が「媚びを売っている」と言われていると聞いた時に、そんなふうに人には見えているんだ!と知りました。
しかし、当時の私は「自然体でしていた」ことを誰も認めてくれず、悲しい気分になっていたのです。そんな生活にも終わりを告げる時を迎えました。
憧れていた都会の生活にも疲れて、田舎に帰ってきて思ったことがあります。
「どこにいても自分を変えるには人と触れ合う」ことだ!と感じました。
それからの私は・・・
地元に帰ってきてから仕事をしながら、楽しみは「TAKARAZUKA」「天神コア」「博多」
「買い物」など計画を立てて、休みの日にリフレッシュする時間を作っていたのです。
20代半ばでやっと決心したこと・・・・
それは、車の免許を取ろうと思ったので仕事が終わると急いで帰って、自転車に乗って自動車学校まで行っていたのです。時間はかかりましたが、取れた時に「車の運転はしない」と決めていたのですが、運転をすることになるなんて思いもしませんでした。
その結果、何十年と乗り続けることになり、いまでは良かったと実感しています。
その後に、子どもの誕生と私の仕事を決めて、子育てをするようになると自分の時間はなくなったけど、子どもとの短い時間が愛おしくなっていたのでした。
子育てには教科書(育児書)など役にたつ情報とそうではないものがあり、戸惑いながらも
頑張ってこれたのです。
子どもを親や託児所に預けての心配もありましたが、元気に育っていました。
男の子は乳児の頃はよく熱を出して、病院に通っていて一緒に診てもらいながら、アレルギーの治療も一緒に一緒にしました。
それでも、2歳半になる頃には、病院に通うのはアレルギーの薬を貰いに行くだけになり、正直ほっとしていました。
私の病気の初期症状は・・・
私の体に起きたのは、天気がいいのに体に痛みが走ったことでした。その時の痛みはズキズキとした痛みだったと思います。
近くの病院で診察を受けると「関節リウマチ」と先生に言われて、母や叔母にこのことを伝えたら、母の実家に「関節リウマチ」の祖母がいることを知るのです。
子供の頃、母の実家で指の曲がった人と他の人の手を借りなければならない人がいました。私が知っているのは、後者のほうでよく見かけていました。
これが、私が自分の病気に繋がるなんて思ってもみませんでした。
それからの私は、いろんなことを諦めたのもこの頃だった思います。
まとめ
私は、自分史をわけると社会人になってからいろんな場面で、苦悩とストレスと戦いながらいたのです。が、不治の病(関節リウマチ)ということが体に起きた時から、心と体にどれだけのストレスを受けていたのでしょう。
ここまでの私は、それでも人と関わっても距離を置かなかったのが、不思議でなりませんでした。
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