この記事は約 6 分で読むことができます。
ココAKARIというサイトの主なテーマは福祉や障害、病気の体験談を綴っていたりと、デリケートな内容を取り扱っています。そこで配慮すべき問題なのかと個人的に思うのが、「障害」という表記の「害」をそのまま使うのか「障がい」なのか「障碍」とするのか、バラバラです。しかも社会的に見ても企業や自治体によって、ガイドラインが定まっていないのです。
細かいことかもしれませんが私も障害を持っている身として、見逃せない事項だと思うので、これを機に取り上げてみます。今回のテーマは「障害の表記」です。一個人の見解も入っていますが、最後まで読んでいただけたら幸いです。
1.そもそも障害の表記はなぜ「バラバラ」に?
現在「障害」という表記になる前は「障碍」という漢字表記でした。「がい」という発音は一緒ですが、意味は少し違います。
「障害」
物事の達成や進行の妨げとなること。
「障碍」
物事の発生、持続にあたって妨げになること。もともとは仏教用語で、明治頃までは「しょうげ」と呼ばれていました。
そして戦後「当用漢字表」や「法令用語改正例」で「障害」が採用され、今でいう当て字の感覚で使われているので、特に深い意味はなかったのです。しかし一部の自治体や企業が「害」という漢字には、公害や危害を与えるといった負のイメージがあると自らの判断で「障がい」と表記し始めたのです。
しかしこの表記問題は健常者や社会が勝手にかわいそうや差別的と、騒いだだけとも取れます。当事者の私だってひらがなに変わっただけでは、暮らしや制度に変化はありません。
こういった伝統的な用語を変更することをポリティカル・コレクトネス といいます。
2.ポリティカル・コレクトネスとは
オックスフォード現代英英辞典によるとポリティカル・コレクトネス (以下ポリコレ)とは「特定の人々を害する言動を避ける」という原則のもと成り立っています。この考えは1980年代にアメリカにおいて生まれた考え方で、性別や年齢、肌の色や宗教、身体障害者などを差別するような言葉を避けて、別の言い回しをしようということで発達してきました。
アメリカでは黒人(Black)と言うのではなく、アフリカ系アメリカ人とポリコレに基づいて、言い換えたりする一環です。そのうち日本でもポリコレの動きは、伝わってきました。
日本のポリコレ具体例
日本でポリコレの代表例というと、職業名の言い換えが際立ちます。
看護婦や助産婦といった女性系名称は2002年に看護師、助産師と改められました。これらは女性だけではなく男性名詞のスチュワード、女性名詞のスチュワーデスも客室乗務員やキャビンアテンダントと呼ばれるようになっています。保育園の保母さんだったのが、今では保育士さんというように、日本でもポリコレが根付いたのでしょう。
ポリコレの風潮が強いなかトランプ大統領はなぜ誕生した?
2016年11月なぜかポリティカル・コレクトネスの検索回数がGoogleトレンドにて、突出したことがありました。
これは米大統領選挙の時期、一般投票がおこなわれた月でドナルド・トランプが当選確実となった時です。どう関係しているかというと、トランプは選挙費用のほぼすべてを自分の財産から出したため、ロビイストといわれる特定の集団(政党・議員・官僚などに働きかけることを専門とする人達)に配慮する必要のない政治家となりました。
トランプといえば移民や女性、マイノリティに対する攻撃的な発言・政策に支持が集まり大統領となったワケですが、その背景には世間のポリコレ疲れがあったのではないかという見方もありました。トランプはそんな風潮のなか疲れている代弁者となり、支持を集めたのです。
ポリコレ疲れと言葉狩り
ポリコレの追求は実際に、誰に向けたか分からない言葉狩りや自主規制を生み出します。アメリカではクリスマスの挨拶に「メリークリスマス」ではなく「ハッピーホリデイ」を用いるべきでは? と問題視されました。
キリスト教徒ではない人も多いのだから、宗教行事的な言葉はいかがなものかという発想ですが、そもそも私たちは「メリークリスマス」を宗教的だ! と捉えてませんよね? 個人的には行き過ぎた配慮だと思います。ちなみにトランプ大統領は「メリークリスマス」と堂々言っています。
日本でも古いマンガやドラマのセリフが修正、欠番、歴史的文脈を無視した改変がおこなわれてきました。どこからもクレームが来ないような体裁は、息苦しくポリコレ疲れは日本でも蔓延しているのではないでしょうか? しかし一方では「男のくせに……」「女なんだから……」という古臭い決めつけに腹が立つこともあります。なかなかバランスを取るのがむつかしいのがポリティカル・コレクトネスなのです。
まとめ・誰に向けた配慮なのかを見直す大切さ
胃薬ができたから胃痛が生まれたように、ポリティカル・コレクトネスの概念を間違って使い回すことによって、余計な疲労感を感じてしまうこの問題はなかなか根深いと感じます。
少なくとも私の考えですが、ここは一度、配慮という概念に立ち返るのはどうでしょうか。誰に向けた配慮なのかを明確にすることによって、その心や考えは伝わり、汲み取ろうとします。そこが大切なことではないでしょうか?
NHKでは今でも障害者と表記します。ひらがなではありません。それはなぜかというと障害はその人自身ではなく、社会にある障害と向き合っている人たちと捉えている、という明確な理由で害を使っています。こういう明確な意志や表明があることによって、気持ちが伝わってきませんか? 実際ポリコレも当初はそういう気持ちから生まれたはずです。
この問題を通して感じたのは振りかざすのではなく、その人のことを考えた言動や行動を意識する大切さに気付かされました。社会を良くしようと思うと、こういう感覚を大事にしたいですね。
参考・ananNEWS HUFFPOST SYNODOS 障害者を障碍者として書くことになった経緯 マイナビニュース
→HOME
コメントを残す