この記事は約 13 分で読むことができます。
こんにちは、翼祈(たすき)です。
昨日は、私の既往歴11個のことを綴った【前編】を書かせて頂きました。それが下記になります。↓
この記事は二部構成の【後編】で、「どうして、約10年間、引きこもっていた人が、仕事を始めて、今WEBライターになったのだろう?」と思って下さった方に読んで頂きたいです。
ここからは、「どうして、私は引きこもりから、仕事を始めることができたのか?」、1つの重大な話について書いていきたいと思います。
かなりヘビーで、ショッキングな内容となりますが、当時のことをありのまま綴っています。
今回は、「仕事を始めた本当のきっかけ」、WEBライターをする上で救われている推しの存在を話していきたいと思います。
約10年間、引きこもっていた私が、仕事を始めた、本当の理由とは?

私は今まで「何で仕事を始めたのですか?」と質問に答えをにごし続けました。
「仕事をしなきゃと思って」と。
実はそれ以上に、私の父という家族の存在が大きく関わっていました。
2015年8月のことでした。
私の父は子供の頃、運動ができて、リレーの選手になる位、足が早かったそうです。
私が運動ができないことで、「母親に似たんじゃ」と言われる位でした。
ただ父は昔から、一点の場所にずっと居られない、ウロウロして回る様なところがありました。診断は受けていませんが、発達障害の様な症状がありました。
この日も、父は毎年夏にやっていた、家の屋根に登って、網戸を洗うということをしていました。それはいつもと変わらない景色、のはずでした。
午前11時30分過ぎ。父は屋根に登る前に、「今日は何か、気乗りしないな」と母にこぼしながらも、やっていました。母は、「気乗りしないなら、止めておいたら?」と言っていましたが、…
洗濯物を干していた時、「ドスッ」という大きな音が聞こえました。「えっ⁉︎何の音?」と母と言って、2階から1階に降りて、
外に出ると、地面のコンクリートに父は倒れていて、周りに人だかりができていました。
「とりあえず、救急車、呼ばないと。お母さん、早く‼︎」と動揺している母は救急車を呼びました。
「どんな状況ですか?」と救急隊が電話で母に聞き取っていました。
私は動揺して、近所の人に身体をさすって貰っていました。父が落ちた時、父が「ウィーン」と唸っていて、あの声は恐怖で、今でも鮮明に覚えています。
10分後でしたでしょうか?救急車と道路を誘導するための消防車が来ました。
「これは酷い怪我だ。ドクターヘリで運ばないと!!︎ 奥さんだけ、一緒に乗って」と言われて、泣き崩れる私を1人残して、母は救急車に乗りました。
母をドクターヘリも来れる場所まで誘導した後、「ここからはご主人だけ連れて行くので、奥さんは後から病院に来て下さい。ドクターヘリが来たら、凄い風が吹くので、危ないので、室内に入って、この場から離れていて」と言われ、母が外に出ると、父の姿はありませんでした。
母はいつもなら杖も持って歩くのに、この日は動揺していたことで、家に杖を忘れて、両膝が痛い中、引きずって家まで帰って来ました。
手術は成功し、数日後、二人で病院のICUへ行くと、父に沢山の管が繋がれていました。
父は意識が朦朧し、「今何時か?ここは何処か?今何日か?何曜日か?」とずっと聞いていました。
この時に、「父は5mの高さから落ちた」と言われました。
そして同時に、「私も引きこもりを辞めて、働かなきゃ」と決意しました。
1週間後、転院して、父は受け答えも歩くこともしっかりできました。
また、転院先で、すぐ主治医に呼ばれて、あることを言われました。
「心臓の波形に乱れがある。もしかしたら突然死するブルガダ症候群ではないかと思う。どこまで延命治療をしますか?」と言われました。
心臓そのものには病気がないにもかかわらず、突然、心室細動という危険な不整脈が起こります。心室細動になると、心臓が痙攣状態になり、体に血液を送ることができず、意識を失って倒れたり、最悪の場合、死に至ります。
帰宅後、母と泣き崩れました。
「せっかく助かったのに、延命治療だなんて…」
何日も考えた結果、「延命治療をしても本人も喜ばないだろうし、私たちも望んでいません」と書いて、署名をしました。
病院に行くと、父は病衣を着ずに、私服で待機していて、「今から家に帰るぞ」と言って、私たちが慌てて帰ろうとすると、下に敷かれたセンサーマットが鳴って、看護師さんが4人で父を抑える、ということがありました。
とても、突然死する様には見えませんでした。
父が帰って来れたのは、依存症であるタバコのことを言わなくなったと思っていたら、裏口で喫煙所まで行き、タバコを知らない人から貰っていたこと、
「頭に塗る整髪料が欲しい」と言い出して聞かず、病院から止められていたお金を母が千円だけ渡し、それで近くのコンビニに朝抜け出して、買いに行って、それがバレて、病院の人同伴で買いに行って、
父が「検査結果はどうですか?」と聞くと、「検査結果も良好ですよ。もうここまで元気なら、退院しましょう」と言われたからでした。
帰って来ると、愛犬が尻尾を振って喜び、父は母と共に散歩に連れて行きましたが、痛み止めの効果が切れて、帰宅後、膝に手を置いて、一歩ずつ踏み締めて家まで入ってきました。その後、起き上がれず、「痛み止めが欲しい」と言うので、母が病院に連れて行きました。
ブルガダ症候群に関しては、「ニ親等以内に、45歳以下の突然死した人がいる場合、遺伝する」ということがネットに書かれていました。
「父方の祖父母はどちらも突然死したけど、60歳以上と80歳近くで恐らく違う」と思っていましたし、父は3年ほど、年に1回ずつ循環器を受診しましたが、ブルガダ症候群ではありませんでした。
落ちた後、その後の父の話では、「屋根に登った瞬間、意識を失って落ちた」と言っていました。「もうこんなことしちゃダメだからね」と言って過ごしていましたが、また5年後に同じことが起こりました。
2020年、父が2回目の屋根から転落。凄まじい怪我でした。

2020年9月、あの日から5年目が過ぎていました。
母はあの日以来、屋根に登っていないか、いつも父を見張っていました。
この日は、母の話では、台風対策で、雨が降る中、父は屋根に登っていたそうです。
1階に私が降りて来て、母と話している時、母と「何か外で人の声がするね。まさか、もしかして、また落ちたんじゃ…」
と言っていると、玄関のチャイムが鳴りました。
「おたくのご主人が、屋根から落ちたみたいで、倒れて、意識失っていますよ‼︎」。
またもや父は外で、地面のコンクリートに意識を失って、倒れていました。今回も凄い人だかりでした。
この日の怪我は凄まじく、「肋骨、骨盤、鎖骨、骨折。左腕は骨がバラバラ。内臓など臓器も損傷し、出血」。
この日の手術は14時間以上かかり、母はずっと待合室で、コロナ禍で感染症対策をしながら、手術が無事に終わることを祈っていました。
手術が終わった後、主治医から術後の説明があって、かなりの時間が経過していたので、場合によっては病院で毛布を借りて、待合室で寝泊まりしないといけない状況でもありました。
この日は台風が近づいていて、母は台風が接近して家に帰れなくなるかも?という中で、たまたま最後の1台のタクシーが停まっていて、次の日まで後5分というところで家まで帰って来ました。
愛犬が台風の風で恐怖でガタガタと震えて私にしがみつきながら、母の帰りを待っていました。
手術は成功しましたが、全治不明で、いつ仕事復帰できるか分からず、父は仕事を一旦辞めることに。
手術で、左腕の骨はかき集めて、動きやすい様に金属が入り、骨盤には大きなボルトが2つ埋められました。
父は元々弱音を吐かずコツコツできる人で、懸命なリハビリをした結果、2ヵ月半で退院しましたが、家族にはある変化が訪れていました。
母は心労で、髪が真っ白になりました。
「ここまで白いなら、染めても無駄」と言い、染めなくなりました。
私の母方の祖母は、母がずっとどうしようもなく押し寄せる不安を抱え込めない感情があったこともあって、泣きながら電話していたことで、心労で1回目の時より認知症が著しく悪化しました。
愛犬は、時々病院に必要なものを預けに行く、私と母とは違い、2ヵ月半大好きな父に会えなかったことで、母が車から父の仕事に持って行く用の私物を下ろした時、「帰って来た‼︎」と喜ぶも父の姿はなく、ガックリと肩を落とし、父の入院から約半年後、次々と病気が見つかって、13歳で死にました。愛犬なりに、心労が多かったと思います。
私はこの時辺りから、「ずっと仕事も休みがちで、くすぶったままで、何もできない、2ヵ所目のA型事業所に留まるより、転職を考えよう」と、TANOSHIKAへの転職を考え出すきっかけになりました。
最近の父

私はずっと認知症っぽいと書くことで、支援員さんからも、AKARIの読者の皆さんからも、「翼祈(たすき)の父は、認知症」だと思われているかもしれませんが、本人が大の病院嫌いで、診断を受けている訳ではありません。
最近、思うのは、同じ年の人よりおじいちゃん化し、老けていること。2回落ちたことで、姿勢が良かったのに、腰が曲がりました。
体力が無くなり、寝てばかりです。
父の話では、1回目と2回目の間に、私と母が祖母の家に行っている時に、隠れて網戸洗いを続けていたらしく、2回目以降、身体の動きが鈍くなって、そういうこともしなくなりました。
父を認知症と思うのは、年齢的なもの、少し血圧が高いこと、維持できている歯が少ないこと、タバコを吸うことなど色々ありますが、やはり2回落ちて、頭を打っているせいで、よりそう見えると思います。
高次脳機能障害もあると思っています。
あの時かなり難しい手術を凄腕の技術で、あの手術をして下さった主治医は開業し、「左腕に突っ張るなど、違和感があればいつでもまた来て下さいね」と言って下さった先生も異動し、今はもうあの病院にはいません。
1回目から今年で10年、2回目から今年で5年。
2回も転落事故を経験すると、身体へのダメージもかなり大きいものでしょう。
父は5年前も、5年経過してからも、金属を入れた左腕の動きが悪いそうです。上手く動かないそうです。
父は私の前では「痛い」など弱音を吐きませんが、母には時々ふとした時に、母にも「痛い」と言わないものの、「上手く左腕が動かせないんだ」と、弱音を吐くそうです。
父には「もう危ないことはして欲しくない」と、母共に思っています。
サビ管さんに、
「何でそんなにお父さんのこと、ボロクソに言うの?自分のお父さんでしょう⁉」
とよく言われましたが、2回の転落事故で、お金や親族の信頼など失ったものも多く、どうしても父には迷惑をかけられた想いが強く、嫌な言葉ばかり言ってしまいます。
次は、私の心を癒してくれる存在を紹介したいと思います。
私の心を癒すもの

ここからは少し私の推しの話をします。
私は2021年、WEBライターになって間もない頃、「この人はWEBライターの仕事が向いている」とハローワークに出す診断書を書いて貰った主治医に、通院で会いに行きました。
WEBライターになって、約2ヵ月の時で、10個位掲載されていた時だったと思います。
TANOSHIKAへの入社をする前の通院で、「先生、掲載されたら、⚪︎さんの記事、読むからね」と言われていて、「何を言われるんだろう?」と期待とワクワクの気持ちで、通院に行きました。
「先生、私の記事、読んで頂けましたか?」と聞くと、
主治医は不機嫌そうに、「長いよ‼︎読む人のこと、考えたら?」
と、言われて、12月中旬から、半月ほど、毎日泣き続けました。
あの当時は、今以上に仕事に慣れていなかったことで、記事の長さも短かった時。
「向いていると言われたから、なったのに…私、WEBライターに向いていなかったんだ。仕事を続けられないかもしれないな」と、会社でも誰にも相談できず、仕事から帰って来た後も一人、泣き続けました。
そうしてお正月休みに入り、大晦日を迎え、「紅白、観ようかな…」と思って、テレビを着けると、1組のアーティストに目が行きました。
観終わった後、涙が温かい感動の涙に変わっていて、その日からそのアーティストの曲を聴き始めました。
今でも毎日1時間、推しの曲を聴くためだけのリラックスタイムも設けています。
最初はYouTubeから勉強して、CDを買って、ファンクラブに入りました。
今年2回目のライブに参加します。ライブ当日まで、体調管理を頑張ります。
最近の私は、

現在、黙々と記事を書いています。
最初は辛かった経験を書くこともとても悲しかったり、涙を流すこともありましたが、最近は、「同じ様な境遇の人に、自分の想いが届いたら」という前向きな気持ちを持ちながら、1記事ずつ書いています。
私の様に、引きこもりから脱して、仕事を始めた経験は多くの人はしないと思います。
それでも、AKARIに書いたことで、自分の中で客観視できたり、心の中でわだかまりとなっていたあの事故もちょっとずつ消化できたと思いました。
WEBライターって、文字に書くことで自分の過去の経験も受け入れることができて、素敵な仕事だなっていつも思いますよ。
終わりに
ここまで、色んな私の過去を書いて来ました。
客観視できて、昔の辛かった記憶とも、ようやく向き合える様になりました。
全ての経験があったから今の私がいるー、とは簡単に言えないほど、30年以上生きてきて、色んなことを経験して来ました。
私が自分自身の過去を振り返る、大きな話は今日で最後にします。
今後はAKARIの読者の皆さんに、元気を届けられる様な記事をまた執筆していきたいと思います。
ここまでお読み頂き、誠にありがとうございました。

noteでも書いています。よければ読んでください。
コメントを残す