障害?障がい?障碍?—多様化した言葉から考える、私たちは何者なのか―

鏡に映る右手と小さな光

この記事は約 7 分で読むことができます。

こんにちは、中村鮮魚店です。

今回は、私がA型事業所で働くうえで、何度も向き合っている「障害」という言葉についてのお話です。

「障害」という言葉は世間で「障がい」「障碍」さらには「ハンディキャップ」など様々な形で表現されています。
こういった言葉の言い換えは、最近の例ですと「看護婦→看護師」「保母→保育士」などが身近でしょうか。
これらは、女性だけの職業という偏見や刷り込みを防止する目的や多様性という考えからも、今の社会には不適切であるため、時代の変化と共に言葉が変わっていった、前向きな進化のように感じます。

一方「障害」の表記は、なぜ様々な形でここまで増えていったのでしょうか。
この言葉について調べてみる中で思いもよらなかったことが分かり、深く考えるきっかけになりました。

この記事を通して、よかったら一緒に「障害」という言葉について、振り返ってみませんか?

その歴史は、平安時代?!

障害の代わりに使用される「障碍(しょうがい)」は、もともと「障碍(しょうげ)」という仏教用語でざっくりとした意味では「妨げになるもの」を指します。
その歴史は古く平安時代までさかのぼり、江戸時代までは宗教的要素が濃かったようです。

明治になり「妨げになるもの」という意味だけでなく、心身の障害を指す言葉として広く使われていき「障碍(しょうげ)」を「障碍(しょうがい)」と読むようになりました。

時代は進み、戦後「障碍」の「碍」が教育漢字から外され、現在の「障害」という組み合わせが採用され、定着していきました。

障害の代わりに使用される障碍が、平安時代から使われていた仏教用語だったとは、驚きですね。
それと同時に、長い歴史の中で時代や背景は違えど「妨げになるもの」という言葉は、形や読み方を変え、残り続けていった。
それは、私たちが生きる上で避けては通れない永遠のテーマだからなのかもしれません。

夕日に向かって歩く群衆

障害の表記はなぜ多様化したのか。

2000年以降、「障害」の「害」という文字自体が持つマイナスな意味やイメージを配慮し、一般的に知られている「障害→障がい」のようなひらがなの表記が増えていきました。
そして、2016年「障害者差別解消法」の施行により、障害者の人権や理解と共に各自治体でもひらがな表記が採用、推進されていきました。

このひらがな表記について「害」字に嫌悪感を抱く人もいるでしょうから、別の表記で配慮しようとする考え方は、一見するとまっとうに思えます。
私の勤めているTANOSHIKAでも「障害」→「障がい」と、ひらがなの表記にしたりと、同じ障害に携わる機関でも表記については本当に様々です。
ですが、その一方で表記を変える事に対して、様々な障害者団体や当事者から強い違和感を示す声もあるようです。
参考元:内閣府ホームページ 「障害」の表記に関する検討結果について H.22.11.22(PDF)10P

こうした流れを知っていく中で、言葉が持つ意味やニュアンスだけでなく、その背景にある個々の障害に対する「込められた思い」に目を向けることが大事なのかもしれません。

そこで、ひとつの大きな疑問が出てきました。

障害って、そもそもなんだろう——

夜明けの湖畔で桟橋に座る背を向けた男性

私が考える障害とは

障害について初めて考えるきっかけになったのが、中学生の時に図書館で読んだ乙武洋匡さんの「五体不満足」でした。
この中で乙武さんは、ご自身の体験から障害だけでなく、その取り巻く社会についても語られています。
当時、私の中で障害といえば身体的なイメージしかなく、24時間テレビやドキュメンタリーで見る「苦労してがんばっている人たち」というピントのズレた安易なものでした。
なのに、心の中では健常者と障害者の線がくっきりしていて、まるで遠い国の出来事のように感じていました。

そのくらい障害が他人事だった私にも、この本は不思議と頭に残り続けました。それがきっかけで生活の中に「障害」という言葉が無意識に染みていき、少しずつ身近になったのを覚えています。

そして、社会へ出て働いていく中で、周囲のスピードについていけない感覚が自分と社会の大きな溝になっていきました。
当時は発達障害の自覚がなく、「努力不足」と、できない自分をずっと責めていました。
そんな時に、自分に発達障害があると診断されたことで「自分の甘えで、できなかったわけじゃなかったんだ」と安心し、頭の中での反省会は減っていきました。
それと同時に「障害」が他人事ではなく、私を表す言葉になり、働く上でこんな風に思えました。

「私はそういう風に生まれてきて、社会がただそういう風にできているだけ」
「今の会社ではうまくいかなかったけど、どこかに自分に合った環境があるかもしれない」

この考えが、折れかけていた心を支える軸になりました。

そうして生きていく中で前章の疑問。

障害って、そもそもなんだろう——

今の私が思うその答えとは
障害は、社会にとって障害なのではなく、社会によって「生きづらさ」が生まれてしまった状態でしかなく、障害者は、そんな社会の中で折り合いを付けながら、必死に生きている人たちでした。

それを強く実感したのは、視覚障害のある友人とランチをした時の出来事でした。

ランチで感じた「社会が障害になってしまっている」

そこはオシャレなカフェで、渡されたメニューは私にとって、普段何気なく読むくらいの文字の大きさでした。
ですが、そのメニューの文字は、彼女にとっては小さすぎ、読めない大きさだったのです。
彼女は迷惑をかけないようにと、私と同じものを注文しました。
そのことを思い出したのはかなり後で、彼女がタクシーで障害者手帳を出した時でした。
そして、何度も一緒に食事をしていたのに、彼女が食べたいものを食べられていなかったことに気ずけず、自分は何を見ていたんだろうと申し訳ない気持ちになりました。

きっと彼女は見えない文字に対して、周りが気が付かないくらい自然に行動できるよう、小さな努力を続けて、社会との折り合いをつけてきたんだと思います。

ですが、この出来事で同時に「もし文字が大きければ、周りに気を遣わず、彼女は食べたい物を注文できたのではないか」とも思いました。
そして、彼女の視力が障害だったのではなく、この文字の大きさでも誰もが読めるだろうという社会の前提が障害になっていたのだと感じました。

それが働く場面でも、「みんなできて当たり前」という前提が誰かの意思や可能性を少しずつ狭め「働きづらさ」を生んでしまうのではないでしょうか。

言葉に込めるそれぞれの思い

こう聞くと障害者への配慮を強いられる「特別扱い」によって「別の誰かが負担をしなければいけない」というように感じる方もいらっしゃるかもしれません。
特に働く現場では、そういった配慮によって負担を強いられている方が、今この瞬間に存在しているのも事実でしょう。
ですが、必要なのは、立ち止まり、自分の見ている世界の当たり前に対して、ほんの少し振り返る——
その優しさこそが社会と心のバリアフリーへ近づく、大きな一歩なのではないでしょうか。
そして、その振り返る優しさが「言葉」に表れ、障害以外の表記が増えていったのだと思います。

それらの「言葉」は、その人の「障害」に対する答えであり、そのすべてがきっと正しい。

その一文字は誰かへの優しさとしての配慮かもしれない、誰かを勇気づける一文字かもしれない。

たった一文字、されど一文字。

あなたは「障害」をどう書きますか?

黄色の花を持つ手

HOME

鏡に映る右手と小さな光

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です