教授へ 造血幹細胞移植を受けたいです

満開桜の木の下で左腕を広げ上げているピンク色帽子を被った女性がん患者

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こんにちは  りんごいくらです🍎🩸

26歳のとき、急性骨髄性白血病を再々発し、ドナー兄による他家造血幹細胞移植を受けました。
この本文は、私の闘病記です。

TOP写真は、移植を無事に乗り越え、退院を3日後に控えた日に撮影したもの。
リハビリ担当の方と病院の外を散歩し、満開の桜を眺めたときの写真です🌸
なんだかまぶしかったのを覚えています。

移植の前に化学療法を終えた2016年12月。
血液腫瘍内科の教授へ、手紙を書き渡しました。

 

そのときの心境はね

【また再び去年のAPL自家造血幹細胞移植と同じことをするんだ。

あの、きっつい致死量の大量抗がん剤と全身放射線をもう一度受けるんだ。

それでも再び、治して、会社に戻って働きたい

そんな気持ちを抱えながら教授へ ペンを走らせていました。

お手紙の内容はそのままです。

造血幹細胞移植は時に生命に関わる重い合併症が起こるため、行うべきかどうか(移植適応)を決めるときには、病気や体の状態、本人や家族が何を大切にして過ごしていきたいかなどの価値観を含めて慎重に検討する必要があります。造血幹細胞移植が治療の選択肢になったときには、価値観や心配なことなどについて、医師と十分に話し合うことが大切です。(がん情報サービスより)


参照元:(がん情報サービス)造血幹細胞移植とは2023.12.14

 


教授へ

  2016年はもうすぐ終わりますがいつもご多忙中に診てくださってありがとうございました。
また今年も私に人生をプレゼントしてくださってありがとうございました。

  思えばN先生とは5年前からのお付き合いになります。
APLを罹患した2011年,血液が固まらなくなって出血が止まらなくなるDICという合併症を起こしましたが、あのときポックリ逝かずに先生が助けてくださったおかげで今も生きています。

また、病気のおかげで自分の価値観が変わりました。
大学を復学後した際に一生の恩師に出会い、教育実習で中高生の「夢」と向き合い、卒業旅行は5カ国を訪れました。大学のご縁で入社した会社では、こんな私でも人と繋がる個性とバイタリティーを飼われていたんです。

  しかし今回、自家移植後に再々発してしまいさすがに弱りました。罹患20歳から5年間の生き方を否定された気持ちと、骨髄移植への不安に です。
でも家族が支えてくれたので腐らずに済みました。弱くなってやっと家族のありがたさがわかりました。
過去にとらわれて非生産的な時間を過ごすのは、もうやめます。
家族のため、応援してくれる人のため、何より素晴らしい人生を謳歌するために、もう一度移植を頑張りたいと思います。

  自分を信じることができたら、何も問題ありません。きついときにグィッと踏み込んでくれる病棟の先生方,厳しいけど的確なアドバイザー師長さん、いつも優しい看護師さん。そして何よりいつも本気で「これは命の問題だからっ!」と雷を落としてくれる先生。久留米しか知りませんが、移植は久留米が1番良いところだと私はずっと信じています。

移植を受けたいです。
厚かましくてわがままな患者ですが
何卒これまでもこれからも宜しくお願いします。

                                                      2016年12月16日 りんごいくら

                                                            真面目にちゃんちゃん

24時間栄養点滴と医療用麻薬モルヒネ点滴を受けているビーチサンダルを履いた女性です。

ドナー兄 造血幹細胞移植11日後  めでたく生着できたビーサンりんごいくら🩴

 

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