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はじめに
いきなりですが、僕は障害者で、アーティストです。専門は文芸と音楽です。
僕はつくることが苦ではありません。
むしろ、つくっていないと息苦しくて生きてゆけないと思います。
「本物のアーティスト」の基準は上手い下手ではなくて、つくるのを辞めて生きていけるかどうかだと思うのです。
世間に認められるかは置いといて、表現を続けることが生きる意味や生きることそのものに直結している人こそがアーティストだと僕は思うのです。
「アール・ブリュット」という言葉
アール・ブリュットという言葉をご存知でしょうか。
フランス語で「生(き)の芸術」という意味を指しますが、日本では主に障害者のつくるアートのことを指して使われます。
他にも「アウトサイダー・アート」という呼ばれ方をすることもあります。
しかし、これらはいずれもあまり世間一般に浸透している言葉ではなく、通俗的に「障害者アート」と呼ばれます。
僕は障害者のアートをわざわざ別称で呼ばなければならない理由が何なのか気になったので、それについて書いてゆきたいと思います。
障害者アートの特徴ってなんだろう
どんなアートにしろ、つくる上で絶対に必要なのは「視点」です。
実際に目に見えたものだけではなく、その人の考え方や生き方の蓄積が重要です。
そのような意味で、障害者は健常者では会得できない独自の視点を持ちやすい傾向にあるという見方もあります。
もちろん、障害の種類によってその感覚の現れ方は様々です。
例えば絵画においては文字や数字、形へのこだわりが強い方もいます。
一つの模様やモチーフを何度も繰り返して使う方もいます。
Kが思うこと
確かに、「障害者のアートには他のアートにない特徴が現れることがある」のはわかりました。
しかし忘れてはいけないことは、自分の抱えている精神世界やイメージ、もっと平たく言うと「表現したいもの」を表現しているという意味では障害者も健常者も同じなのです。
そのアートがいかに素晴らしくても「障害者アート」という枠組みに収まるのでしょうか。
例えば健常者が一つの模様やモチーフを繰り返し使って一枚の絵画を仕上げたとしたらそれは「障害者アート」でしょうか。
僕は「アート」にオリンピックもパラリンピックもないと思うのです。
一人の人間が、自由に、己の視点で作り上げたものに、最初から勝手な付加価値を付けたり色眼鏡を準備したりする必要などないと思うのです。
以前、100円ショップと障害者アートのコラボなどもありました。
グッとくるものは売れて、グッとこないものは売れない。
それだけのことです。
「障害者」はキャッチコピーでしょうか。
これはほんとうに障害者の尊厳を守りながらの平等な社会参画でしょうか。
収益が出れば作品を描いた当事者も喜びを感じるかもしれません。
しかしこの状況を俯瞰した時に、どのような未来が見えるでしょうか。
これは正解不正解の問題ではなく、在り方や意識の問題だと思っています。
「障害を武器にしている」とも言えますし、「障害者が消費されている」とも捉えられます。
Kはまだ答えが出せそうにありません。
一人の障害を持つアーティストとしてこれからも考えてゆきます。
皆さんはどう思いますか?
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