病気による悲観主義を越えて〜楽観的になれた私の場合〜

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はじめに

人間は置かれた状況により、悲観的にも楽観的にもなります。いっときの喜怒哀楽を超えた一定のムードを悲観主義、楽観主義と呼ぶのですね。私necoは、歳を重ねるごとに楽観的になってきたように感じています。

今は、時折挫けそうになりながらも、成るように成るさ。ケ・セラ・セラ〜を信条に日々過ごしています。落ち込む時や悲しい時ほど、悲しむ必要はないよ、と自分に言っている自分がいるのです。いわゆるポジティブシンキングが板についてきたのです。

しかし、もっと若かった頃は悲観的だし皮肉屋でした。何が私をそう変えたのでしょう。

突然の別れ

20代始めの頃母が急逝しました。55歳でした。あまりに突然のことでそれから体調を崩し出しました。眠れない不眠症になったのです。薬の残を確かめては、「足りるかな?」と確認を繰り返す毎日。「私なんてダメな人間だ」「東京から帰ってきたらやる気が失せた」と悩んでいました。

だけど、家族が亡くなっても、人生って続いていくんですよね。いつのまにか母が居ないことに慣れていきました。そうして、死というものが身近であること、いつ自分がいなくなってもおかしくないのだから、悩むより人や物事の良いところを探し続けよう、と思うようになりました。

体調不良と結婚、離婚

しかし今度は自分自身の体調不良と付き合わなければなりませんでした。途中良くなるのにまた落ち込んでいく…。気持ちではなんてことないさ、と思っていても、体が言うことを聞かない。もどかしい日々が続きました。

そんな時に出会った人と結婚しました。彼は私を優しく見守ってくれ、この人といると安心できるなあと思ったものです。しかし、結婚後3年目にして被害的に物事を考えるようになってしまい、初めての入院を経験しました。「一生薬を飲まなきゃいけない」と悲観的になっていた彼と口論もしばしば。その頃から夫婦としての歯車が合わなくなり、2人の間に溝が生じ始めたのです。発病をキッカケに家族間の雰囲気が悪くなってしまうことは、のちに出会った人々との会話を通してよくあることなんだなと分かりましたが、その頃は病気になっただけで離婚するなどとは夢にも思っていませんでした。

彼の母親との一見変わった共同生活

入院後、退院先として、実家か婚家かとなりました。結果、まだ籍が入っていたこともあって、彼の実家にお世話になることに。お義母さんはスーパーポジティブ。しかも包み込むような優しさを携えた人です。途中で籍を抜きましたが、しばらく居れば良いじゃないと言ってくれそれに甘えたのです。お義母さんは私の症状にも付き合ってくれ、ひとこと言ってくれた言葉が今の私の礎となっています。それは、「人にあれこれ言われる生活なんてない」。

自分自身を持っている大人の女性から発せられたひとことに救われたのでした。その後、積極的に治療に取り組みながら、波はあるものの今に至ります。

◯◯のせいでうまくいくわけない?

楽観主義は、周りのことをあまり重要視しない個人主義だとも捉えられがちですね。実際、自己責任を持つこととは繋がっていると思います。

悲観的になって誰かを責めるより、自分で責任を持ち結果を享受、もしくは食らう。それは一見タフなようですが、清々しいものです。

そして常に大切にしているのは、ありがとうとごめんなさいの気持ちと言葉です。これまでも今からも私はお義母さんに頭が上がりません。何かあると察したように電話をくれるお義母さん。彼と別れてから10年以上経つのに、今も繋がっている大切な人です。

自分を大切にすること、さりげない愛情、逞しさ、そしてことが起きる前にあれこれ悩まないこと。全てお義母さんから学びました。渡辺淳一さんの「鈍感力」という本がありましたね。私も少々鈍感になったかも。

鈍感くらいでちょうどいい。とんがりすぎてた頃はもう過ぎました。

気になったことを後回しにできるくらい力を抜く方法が楽観主義になることだと言いたかったのです。ポジティブシンキングには、いいものが集まってくる「引き寄せの法則」があると言います。

また、脳には順応性があり、筋肉のように鍛えられると聞きました。いい意味でクセづけをすれば、パニック発作などにも功を奏しそうです。

辛い経験を理性的に考えてみれば、きっと出てくる答え。その気づきを大切にしましょう。おまじないはケ・セラ・セラで!

参考文献

渡辺淳一「鈍感力」集英社

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B7%B3%E4%B8%80

 

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