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こんにちは地平線です。障がい者アートの現在地は第三回である本記事で締め括らせて頂きます。
最終回となる今回ではこれまでを振り返りながら障がい者アートの未来について書かせて頂くことにしました。よろしくお願い致します。
障がい者アートを見てきて
第一回では法律などの社会的側面から、第二回では私の体験から障がい者アートを見てきました。最終回である今回は、今後障がい者アートはどのような方向へ進んでいくのか、あるいは進んでいくべきなのかを考察したいと思います。
障がい者アートという定義の必要性
ここまで障がい者アートとして取り扱ってきましたが、そもそも障がい者とつける必要性はあるのでしょうか。第一回で取り扱った法律をよく読んでみると障がいの有無に関わらずという文言があります。
文化芸術を創造し,享受することが人々の生まれながらの権利であることに鑑み,国民が障害の有無にかかわらず,文化芸術を鑑賞し,これに参加し,又はこれを創造することができるよう,障害者による文化芸術活動を幅広く促進すること。
そして、第二回でも私は芸術における平等について書かせて頂きました。芸術において障がいの有無は関係ないはずだと私は考えています。
実際、芸術史に名を残すような偉人が障がいを持っていたり、持っていたのではないかという研究結果が出たりすることは珍しくありません。例えば「自画像」や「ひまわり」で世界的に有名なフィンセント・ファン・ゴッホも何らかの疾患(双極性障害、てんかんなど様々な説がある)をもっていたことは確かなようで一時期、病院での入院生活を送っています。
余談ですが私は一度だけ、本物のゴッホの絵を見る機会があり、その中で特に気に入ったのが「サン=レミ療養院の庭」です。
この作品は入院生活中に病院の庭を書いたもので、まさに闘病のさなかにあったゴッホが描いたものです。個人的な感想としては入院生活の中でふと見た緑の美しさへの感動が伝わってきて、実物だと筆跡なども合わさってゴッホの喜びを追体験するような感覚がありました。ゴッホの作品には珍しいサインが入っており、とても満足したのが伝わってきた事を覚えています。ゴッホはやや暗い絵が多い中で珍しく明るい雰囲気なので展示会場でも目を引く作品でした。
閑話休題
このようにゴッホも自らの病と闘いながら創作をしていたのです。そのためゴッホの絵も障がい者アートであると言えますが、その枠を超えて絶大な評価を受けています。
しかし、これは美術史に名を残すような偉人の場合であるという事を考慮する必要があるでしょう。それでも芸術の世界には障がいを受け入れる下地があると私は考えています。
障がい者アートの未来
私は障がい者アートが目的地として目指すべきなのは「障がい者」をつけなくて良い、一般の人と平等に芸術活動に参加できる世界の構築だと私は考えています。逆に障がい者として配慮は必要ですが過剰な特別な扱いを受けることは誰にとっても良くないことのような気がしました。平等な基準のもとにあるからこそ障がいが個性として受け入れられてゆくのではないでしょうか。
これまで見てきたように障がい者が平等に芸術活動へ参加できる事を目指して様々な動きがおきています。その流れが今後、どうなってゆくのか期待しながら見ていきたいと思っています。
以上で三回に渡った障がい者アートの現在地を終わらせていただきます。
ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
また次の記事でお会いしましょう。地平線でした。
(写真:地平線)
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