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うつ病viviの「非難を浴びる時」
はじめに
はじめはよかったんです。はじめは・・。
どこからか崖は崩れ滑り落ちていきます。
なぜ?人のせい環境のせいとは言いたくありませんが、どうしてもそう考えてしまいます。
だけど違うんです。そうじゃないんです。「種をまいたのは私」私が全て悪いのです。
今日まで私は仕事がうまく出来ていたように書いてきましたが、そんなことばかりではありません。
どうにもこうにも、にっちもさっちもいかない時もありました。
負けないように負けないように頑張りました。だけど頑張れば頑張るほど空回り。
その結果がこれ。「負け犬」です。負け犬になってしまった今の私・・。
今回はこれをお話します。
はじめめはよかったんです
履歴書・職務経歴書も完璧。面接でも第一印象OK。手応えあり。内定を受け希望の配属先に正式決定。そして、「いくらなんでもそこまではできない。無理」と限度を超えた過大評価をされて入社(入職)いつもこんな感じではじめはこう。
周囲の人たち(先輩・直属の上司)は、いつの間にか入社(入職)する前に「こんな人がくる」と一部の人たちに知らせられていて、妙な視線を浴び緊張してプレッシャーを感じながら仕事に取り掛かる。
どこにでもいるけれど、こんな私を気に入らない人たちやそうじゃない人たちもいる。
どこにでもでもいる。ここと限らずどこにでもいる。
少しばかり癇に障る人たちもいるけれどこれは根比べ。
だから何でもないふりをして笑顔で乗り切る。笑顔は私のモットー。
一度の凡ミス
仕事も順調に順風満帆であっても、必ず落とし穴がある。
それは仕事がミスなく進んでいる時に、うっかり気を緩ませてしまった時におきる凡ミス。
これを待ち構えていた人たちは大喜び。うかつでした。
しかし、今回やってしまった凡ミスは私以外の人でも、やっているミス。
その仲間同士の間では「また、やっちゃった」と。笑い話。そのミスをみんなでフォローして慰めあい。
これが私だと、ここぞとばかりにことごとく四方八方から怒鳴りつけられる。その後自分で自分を励ましながら「大丈夫」とエールしながら、そのミスを訂正して正しい状態に戻す。
これが中途入社(中途入職)の辛いところ。
次は批評
その一度の凡ミスをきっかけにプレッシャーで凡ミスをする数が増えた。そして凡ミスをするたびに周囲が喜ぶ。
それでも負けるまいと頑張るけれど空回り。
そして周囲からは好き勝手批評されて、どこまでも追い込む。
「あの人は〇〇〇だ」「あの人は〇〇〇と聞いているけれど、本当は〇〇〇」
「あなたは〇〇〇よね」「あなたは〇〇〇なところがあるわね」「聞いていたのと違うわ」
言われたこと。そう見られてそう思われていると聞いたこと。確かに一理あるけれど入社(入職)して1,2か月で何がわかるのか?と心の中では思っていました。
あっちにいってもこっちにいっても、批評という名の噂話。こうなると我慢も限界になってきます。
だけどまだまだ大丈夫。
非難
好き勝手な批評大会のあとは、この批評を元に非難される。一方的に。
「〇〇はやっぱりたいしたことない」「あの人はそういう人」「辞めればいいのに。ここにいられなくしてやる」
ミスをするように仕掛けられたこともある。だから、また仕掛けられないように用心して慎重に仕事をする。それがまた周囲の人たちにとっては面白くない。自分たちの罠になかなか、はまらないから。
罠にはまらないのが気にくわなくて、私を更に非難する。あることないこと好き勝手に。
こうなるといい加減腹が立ってくる。だけど、とりあえず我慢我慢。でもこれができたのは若い頃までで、ある程度年をとってくるといろんな知恵が働いてよからぬ行動をとってしまう。
「なんとか、この状況を突破する方法はないだろうか?」
「こんなことで負けるものか!」
「あれをやるか!」
追い込まれて
片意地張ってるとだんだん悲しくなってくる。日々孤独との闘い。
こんなニックネームをつけられたことがある。それは「アウトロー」
アウトローとは、社会秩序からのはみだした者。無法者。法律を無視する人。犯罪等により法の保護を受けられなくなる人物。
恐らくこんな言葉を使うのは昭和生まれの人ぐらいで、きっと今の若い人たちは使わないし知らないと思う。
この呼び方は意外と気にいってた。「アウトローかぁ上等!上等じゃないか!」って感じで。半ばやけくそ。
だけど本心は虚しかった。私はただ地味に目立たずひっそりと生きたかった。
なのに日に日に目立つ渦中のアウトローは窮地に追い込まれて壁にぶちあたる。
無念の涙
壁にぶちあたって出口がなくなった。あるのは足元にある大きな穴。大きな穴を覗くとそこには下に降りる階段がある。
その階段から叫び声とすすり泣く声が聞こえる。こっちにおいでと。
私は泣くしかなかった。悔しくて悔しくて。でも下の階には同情してくれる人たちがいる。
私はゆっくり階段を降りた。だけどすぐ降りたことを後悔して戻った。なぜなら、そこは傷のなめあいをするところだったから。こんなところにいたら、もっとダメになる。
もう負け犬なんて言わせない。
若い時は勢いがあり、どんなことも、はねのける意欲と行動力がありました。
でも今はもうない。だから私は「負け犬」のままでいい。「負け犬」としてどうどうと生きる。
おわりに
種をまいたのは私です。全て私。私の存在そのものが「災いの種」
どこにいてもなんかある。大小様々だけどなんかある。
それは長くいればいるほどなんかある。
今だってそう。前は良かったのに今は良くない。始めの頃は、あったかい居心地のいいところでした。正直、今はあまりよくありません。
だけど、ここはこんな私に「居場所」を用意してくれます。辛くなったらまた「別の居場所」へと、いろんな方法で守ってくれます。
私は「居場所」がほしいのです。
ただそれだけなのに、一般社会は私に「居場所」を与えてはくれないしほっといてもくれません。
どこも同じ。どこに行っても同じ。非難は浴びる。
一度浴びた非難はいつまでも心の中に焼き付いていて忘れることができなくて、ずっとまとわりつく。悔しいけれど思い出すたび、私はやっぱり「負け犬」なんだと思う。
だから今さらどう思われようとも、どんな非難を浴びようとも、どうってことない
「怖くない。もう怖くない」
そう思えるようになれたら、どんな非難を浴びようと強くなれると思う。
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貴女の書いた記事で共感することがありました。わすれていたことを思い出してしまったけど、今を大事にするようにしています。
今がいちばん辛い時なら「仕事して給料をもらっている」と考えてみてはどうでしょうか
?
私が辛いと感じた時は仕事は給料で差別は人の心までもかえてしまうものです。
自分の過去から抜け出したイメージをもったら少しは楽になるのではないでしょうか?