国家と家族 時代とともに移り変わる家族観

家族観

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1.家庭教育支援法

 2006年の教育基本法の改正により、国と地方自治体は、「家庭教育」を支援するための施策を行うことになりました。自民党はそうした取り組みをさらに推進するために、今後「家庭教育支援法」の制定を目指していると伝えられています。

 一方、この法案が最もプライベートな私的領域(家庭)への公的権力の介入につながるとして、法律家や女性団体が反対する動きもあります。

 国や自治体がこのような「家庭教育支援」に取り組むようになった理由は、親こそが子どもを教育する「第一義的責任」を負っているのにも関わらず、現代の親はその責任を果たしていないと考えているからです。

 その背景には、家族形態における「核家族化」か進行し、三世代同居といった伝統的家族形態が減少し、親がもはや子どもを育てる能力がないと考えているためです。

 核家族とは、①一組の夫婦、②一組の夫婦とその子ども、③父子世帯や母子世帯からなる家族のことを言います。

2.昔も核家族世帯が多かった

 しかし実は、歴史を振り返ってみても、昔も核家族世帯が多かったのです。1920(大正9)年に行われた第1回国勢調査でも、「核家族世帯」のほうが、「その他の親族世帯」(多くは三世代家族)よりも多く、55.3%を占めていたのです。

 その理由としては、兄弟姉妹が多く(1920年の合計特殊出生率は5.24)三世代同居が困難だったこと、もう一つは平均寿命が短かったためです。

 人口学者岡崎陽一は、1935、36(昭和10、11)のデータをもとに、「家族形成」の標準モデルを作成しています。

 それによると、祖父は63歳、祖母は66歳で死亡。祖父の死亡時、最初の孫は1歳、祖母の死亡時は4歳であったとされます。子どもの多くは、祖父母の記憶すらないのです。

 戦後も核家族世帯は一貫して6割で推移し、高度成長期もほとんど増えていませんでした。むしろ2000年代に入って、その数字は減少傾向にあります。

 家族形態で増加しているのは一人暮らしの単独世帯であり、高齢化や未婚化・晩婚化の影響で、単独世帯が3分の1を占めています。

3.三世代家族は昔はよくないとされていた

 「昔の家族は祖父母が同居していたから、子どもがよく育った」と言うとき、そこで想定される家族観は、今日の「三世代同居家族」や「二世帯同居家族」のようなイメージだと想定されます。しかし、昔は三世代家族といった直系家族(長男など家系を継ぐ子ども家族に親が同居する形)は、子どもの成長によくないとされてきました。

 心理学者の辻正三は、1954年に『親子関係』という本の中で、次のように書きました。

 現在までのところ、わが国ではなお相当数の幼児が、主として祖母によって養育されている。いわゆるおばあさん子の心理的行動な特徴としては、甘ったれで泣き虫で、気に入らないことがあると、すぐおばあさんに泣きついていくことがよく問題にされる。

 祖父母の世代が同居する家庭では、どうしても人間関係が複雑になりやすく、それが子供の人格形成にも、好ましくない影響を及ぼす可能性が増大する。祖母と母の確執の中で、子供は甘い方の秘蔵っ子が人の顔色をうかがう子、あるいはかげひなたのある要領のいい子供にならざるを得ない(都留宏他編『親子関係』福村出版、1954年)

 もう一つは、1961年に出された大日本女子社会教育会の『新しい家庭教育のあり方』には次のように書かれています。

 昔から、年寄っ子は三文(注・値打ちがごく少ないこと)安いと云われますが、三文どころか、我がままで自分を抑える力がないために、扱いにくい子どもになる例が少なくないのです。今のお年寄りが子どもを育てた時代というのは、生んでは殺し、生んでは殺しという状態で、運のよいものだけが生き残ったという野蛮な時代でした。

 若い嫁たちが昔はこうしていたという押し付けから解放され、新しい育児法を取り入れて、子どもの健康や教育に専念できるような状態が、一日も早く来ることを希望し、そのために総ゆる努力をすべきです。(大日本女子社会教育会『新しい家庭教育のあり方』1961年)

 このように、祖父母は孫を甘やかすとされ、「年寄っ子」や「おばあちゃん子」は、「甘ったれで泣き虫」で、「我がままな子」になると考えられていました。

 直系家族の人間関係の複雑さも、子どもにとってよくないとされました。祖父母が子育ての実権を持っていため、子どもは祖父母と母の板挟みになり、「人の顔色をうかがう子」「かげひなたのある要領のいい子ども」「扱いにくい子ども」になると言われてきたのです。

4.「核家族」の登場

 一方、核家族はどのように捉えられていたのでしょうか。

 「核家族」(nuclear family)という言葉は、そもそもアメリカの人類学者G.P.マードックが、『社会構造』(1949年)という本の中で最初に扱った言葉です。

 社会学者の松原治郎によれば、この学術用語が日本で一般に使われ出すのは1960年代に入ってからと言いますが、60年代末にはすっかり日常用語になってしまったと言います。(『核家族時代』NHKブックス、1969年)。

 核家族という用語が広がる以前は、親と子からなる家族は、「小家族」や「夫婦家族」と言われてきました。

 松原は、核家族について次のように述べています。

・核家族は、男女の結合と子どもの社会化という性的、生物学的な「自然の理」に基づく最も「純粋」で「安定」した家族である。

・それゆえ、核家族は、様々な家族形態の「核」となる家族であり、どんな時代にも、いかなる社会、民族にも普遍的に存在する。

・直系家族や傍系親族(兄弟姉妹、おじ、おば、甥、姪、いとこなど)を含む拡大家族は、核家族が組み合わさって編成された家族である。したがって、「核家族化」は家族制度の解体や崩壊ではなく、家族としての「純化」である。

 すなわち従来の「家」制度や直系家族が前近代的、封建的な家族と批判され、家族の民主化・近代化がめざされた戦後の社会では、核家族こそが近代的で民主的な家族であり、最も「純粋」で「普遍的」な「真の家族」だと考えられてきました。

 そのため、松原は、子どもの育成や社会化は、核家族が持っている本来的な機能であって、核家族でなければ果たすことができない機能だと言うのです。

 こうした認識は、研究者だけではありません。高度経済成長期までの国の政策もまた、核家族を産業構造の転換や民主化、近代化、西欧化、都市化にともなう必然的な現象だとして捉えていました。

 たとえば、1971(昭和46)年版の『国民生活白書』は、松原と同様、核家族化を「家族制度からの解放と家庭機能の純化」と見なし、家族員の「自由な個性発揮の可能性を与えるもの」であり、「新しい家庭確立の基礎をなすもの」だと指摘しています。こうした見方が、戦後から1971年ごろまで、政策認識としてあったのです。

5.核家族批判の登場と広がり

 ところが、1970年代に入ると、核家族批判が徐々に広がり、政策もあからさまに核家族を批判するようになるのです。

 中でも、児童憲章20周年を記念して、「子どもと社会」と題する特集を組んだ1971(昭和46)年版の『厚生白書』は、核家族化や親の養育態度を大々的に批判した初めての白書です。

この71年版『厚生白書』は、「問題親に影響される児童」と題する項目を設けて、

 家庭環境をめぐる最近の特徴としては、世帯規模の縮小と核家族化の進行により、きょうだいに恵まれぬ児童、祖父母との接触がない児童が増えており、多角的な人間関係のなかで育つ機会に乏しいことがあげられる。

と批判しました。

 その過程を、広井多鶴子さんは次のように分析しています。

 こうした核家族化批判によって、60年代までの直系家族への批判は忘れられ、核家族を理想化する核家族論もかき消されていく。

 その結果、かつて祖父母が育児の実権を握っていることが問題にされていたはずが、祖父母はまるで育児の「援助者」や「協力者」だったかのようにイメージがすり変えられた。

 そして、核家族はそうした祖父母の助言や援助を失った孤立した家族だと考えられるようになった。

 あれほど祖父母が子どもを甘やかすと批判されていたことも、なぜかすっかり忘れられた。代わって、核家族では親が子どもを甘やかとされ、過保護、過干渉、甘やかしが、まるで核家族の親の特徴であるかのように見なされた。

 また、以前は直系家族の人間関係の「複雑さ」子どもの人間形成にとってよくないとされていたはずだが、今度は、核家族の「単純さ」がよくないと言われるようになった。核家族では、「多角的な人間関係のなかで育つ機会に乏しい」というのである。

 さらに、かつて、因習に基づく育児は非科学的で不衛生だと批判されていたにもかかわらず、核家族化によって子育ての「伝統」や「慣習」が断ち切られたことが問題だと言われるようになった。

 そして、それゆえ今の親は育児の方法を知らず、育児書に頼ってばかりいる自信のない親であると見なされた。

6.なぜ親を批判するのか

 では、70年代以降、なぜ親が批判されるようになったのでしょうか。広井さんは、その理由を、子どもの成長・発達に関するさまざまな問題が家族にまずあるとし、家族の責任を問うためであると分析しています。

 1971年版『厚生白書』は、そのことを表しています。この白書では、子どもの養育は親に「第一義的責任」があると記し、「国」や「社会」は子どもを育成する第一義的責任は負わないことを暗に示しています。

 実際、70年代以降の政策は、「国家が国民の生活を保障する」という「福祉国家政策」を批判し、「新自由主義」と言われる「自己責任」型の政策へと少しずつ転換していくのです。

 こうした「自己責任」型の政策が目指したのは、教育予算や児童福祉関係予算の削減です。

 たとえば、国立大学の授業料は1963年から71年まで年間1万2000円と低く抑えられてきました。それが72年に3倍の3万6000円、76年には9万6000円となり、値上げが繰り返されるようになりました。

 OECD(経済協力開発機構)の調査によれば、日本は大学など高等教育の公的負担の割合が最も低い国の一つで、国が教育費をあまり支払っていません。そうした教育行政の仕組みを作っていったのが、「親」を批判し、「自助努力」と「自己責任」を追及し、「国家が責任を負わない」とする1970年代以降の政策であると、広井さんは見ているのです。

  参考

広井多鶴子(2018)『「昔の家族は良かった」はウソなのに・・・なぜ国家が家族に介入 するのか 「子どものいる家族」をめぐる50年史

社会問題

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