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こんにちは、りんごいくらです🍎🩸
今回は自分が入院した病院主催イベントに参加したこと、闘病中の記憶と心境、ヤバい時の話、そして自分の現状を書いています。
昨年末、こんなイベントに参加しました。
K大学病院主催
「こころとからだの未来フェス」
医療と環境の未来を考えるを公開講座
プロ運動選手5名を対象に
睡眠時間や試合前後の食事、たんぱく質摂取などを
大学学生も関わる長期的に調査した研究内容の発表会でした。
参加目的はひとつ。
元プロ野球選手Sさんがゲストで来る きゃ♡
……それだけで、Sファンだったので行った(^o^)
■ 受付でいきなり心をつかまれる
受付に行くと、女性医師が2人。
医師「いくらさ〜ん!参加者リストに名前あったけん、待っとったよ。
わかる?〇〇だよ〜」
「〇〇せんせい〜だわ,きゃ〜!」
受付前ですでにテンション爆上がり↑↑
彼女は、私が白血病を罹患し初入院していたときの担当研修医〇〇先生でした。
研修を終えた後も同じ院内で、別の内科で働いていらっしゃる。
イベント前半が終わり、休憩時間20分。
私は先生のところへ一直線。
「先生あのね、現役時代のS選手のファンだったの❣️Sさんと私は白血病なの、種類は異なるけれど。
それで今日来たんよ。」
医師「あら、そうなん?
ほら、Sさん今そこ通ったやん。
今のうちに声かけんね!休憩あと10分よ!」
「……うん!!」
(背中を押される20秒前)
「あの……S選手のファンでした!
私も白血病でしたので、今もずっと応援しています!」
Sさん「ありがとう。そうか。
……写真、撮ろうか?」
ふたり並んで パシャ
ガタイが良くて、さすが元プロスポーツ選手💪
思わず、うっとり。
こうして、
貴重なツーショット写真を撮ってもらいました💖
師走にできた、大切な思い出の一枚。
そして――
〇〇先生との6年ぶりの再会も重なった、忘れられない一日でした。
■ ベッドサイドに来てくれた先生たち
さらに記憶は、6年前へ。
私が26歳、そして29歳で再発入院したとき。
〇〇先生は、病室のベッドサイドまでお見舞いに来てくれていました。
〇〇「いくらさ〜ん、来たよ〜。
△先生も医大に来とったから連れてきた^^」
△「やあ、もう29歳か。20歳からよく成長したね。」
「△先生、小児科でしたよね。
そのセリフ、めっちゃそれっぽい🤭
ねえ、記念写真撮りたい!」
「「いいよ〜」」
ベッド縁にそろって座り
3、2、1……📷✨
大切な思い出の一枚ができました。
■ 孤立しなかった闘病生活
泣いたり、きつかったり、悔しかったり、嫉妬したり。
AYA世代あるあるの感情は、もちろん全部あった。
それでも私は、
心がぽつんとなる孤立は、ほとんど感じずに闘病していました。
自家移植と同種造血幹細胞移植とを2度もしたのに、なんでまた再発するんかい!そんな自分が、どうしても嫌になったこともある。
25歳で早期に妊孕性を失い、
「こどもを産めない女になった」
そんな言葉が、少子化の言葉と合わせ頭の中で何度もぐるぐる回った🌀
出産という“生産性”を基準にされる世の中で、
それがもうできない自分の命には、
もう価値なんて無いんじゃないか。
20代はもう十分生きたし、
人生、ここまででもいいかもしれない。
そんなふうに落ち込んだ思った夜も、確かにあった29歳。
この時の感覚は、
同じ病気を経験した人じゃないと、たぶんわからない。
だから正直、
「もう放っといて!」
そう思う時もあった。
わたしの最期は家かな🏡、病院かな🏥
お葬式には誰に来てもらおうかな。
そんなことを、絵に描いたメモにして
看護師さんに見せたこともありました📝🖋️
比較的にちょろちょろ動くりんごいくらの病床は、緩和ケアへ移動となった。
■ なぜ、私は孤立しなかったのか
理由は、たぶんこれ。
入院するたびに、
医師や看護師はいつも優しくて、
かつてお世話になった先生はベッドサイドまで来てくれて、
たくさん話してくれた。
気づけば、
高校のOB・OGや同級生が
医大の専門職員として、結構働いていた。
「久しぶり〜」
「元気にしとるかね」
そんな声かけが、
とにかく嬉しく、楽しくて、元気をくれた。
みんな、心配しながら向き合ってくれていた。
それが、たまらなく心地よかった。
■ 29歳 病状がヤバかったらしい闘病生活はまるでこどものようだった
いくらさん、いくらちゃん。
私にとっての20代最後の闘病生活は、
脳みそにがん細胞が移った再発をし余命1ヶ月、3ヶ月、半年、、、血液内科の抗がん剤+ステロイドパルスと放射線科での全脳照射を受けながら、、、><
名前を呼んでもらっているような子供の気分。
教授「退院後に肺炎による入院を1週間しとるな。携帯用の酸素タンクを貸すのでそれを転がしながら、もう退院していいよ。」
「いやだ!ここは私のおうちだもん。実家に帰りたくない!話せる看護師さんおらんもん。あと1週間おるもん!」(駄々こね駄々こねこね)
教授「はは、そうかぁ。」(仕方ないな)
きついときは泣いて、
楽しいときは笑って、
どんなときも、看護師さんが声をかけてくれる。
どんなに病歴が長くなっても、
医師 看護師 医療者は患者を覚えてくれている。
お喋り患者「りんごいくら」に適した接し方は“声掛け”だったのでしょう。
■ そして、今
おかげさまで、昨秋、完全寛解を迎えることができました㊗
がん細胞が浸潤していた脳も、いまはきれいになり、再発のない5年間を過ごすことができました。
振り返れば、15年間、ハタチから医大に通い続けました。
ずっと教授の患者として診ていただきました。
長い時間でしたが、その積み重ねがあったからこそ、今があります。
命を支えていただいたのだと思っています。
これからつづく人生は、
無理をせず、静かに、自分の歩幅で進んでいこうと思います。
久留米市の就労支援A型事業所TANOSHIKA CREATIVEで、体を大切にしながら3年間働くことができました。
その時間もまた、今につながっているように感じています。
すべてに、感謝しています。
ちゃんちゃん
noteでもがんのこと書いています。





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