医療対話推進者。医療者と患者や家族に不安、疑問、不満などに関する対話を促す役職。

医療対話推進者

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こんにちは、翼祈(たすき)です。

私は20代の前半から、糖尿病という既往歴を持っています。

その原因は、病院で処方された薬でした。

私がこの記事を書くに当たって、「こんな人がいてくれたら、私が糖尿病にならずに済んだのかな?」と思った、「医療対話推進者」という人たちです。

今回は、「医療対話推進者」ってどんな仕事をしている人?などを発信していきたいと思います。

「医療対話推進者」だからこそできる役割とは?

女性の医師

医療機関・病院において、あらゆる医療過程(日々の懸念から不測の事態を含む)で患者およびその家族が持つ疑問、不安、不満などについて、患者・家族が納得して医療を受けるために院内の相談窓口として常駐し、適切に対応します。

患者・家族がエンパワーされ、医療者が本来の仕事を問題なく実践できるように両者を支援します。

医療者と患者・家族が真摯に向き合い、当該医療者が説明責任を果たすためのより良いコミュニケーションを促進できるように支援します。

引用:医療対話推進者研修とは NPO法人「架け橋」

私が糖尿病になったいきさつ

看護師の女性

私が以前処方をされていた精神科の薬を飲んでいた際に、私が薬の副作用で暴れて困っていた両親が主治医に頼んで薬を「ジプレキサ」というものに変更してもらったのが始まりです。

その主治医は、「頓服出しておきますね」と言って、大量に頓服を出し、薬局で母が確認すると、「ジプレキサ」も頓服に入っていたそうです。私は頓服としては飲んでいませんでしたが。

今度は「ジプレキサ」の影響か、牛乳が家の在庫から切れると、夜中にでも、激しく激昂する様になり、両親に凄い数、毎月60本を買って来させたり、コンビニにしょっちゅう行ってはジュースなどを買って来て暴飲暴食を繰り返し、食っちゃっ寝をする私を見て、母は不安を感じ、当時の主治医に相談しました。

「娘は明らかにおかしいんです。採血して貰えませんか?心配なんです!」と訴えても、「暴れるからということで薬を代えたばかりで、そんなことできるわけない!我慢しなさい!」と言われて、「ジプレキサ」という薬を飲み始めて、1年半採血をして貰えませんでした。

渋々、「貴方がそう言うから、しますよ」と言って、採血をすると、普段は全く電話して来ない病院が、今すぐ来て下さい、と血相変えて言われました。

2日後に病院に行くと、「血糖値450以上、HbA1c 15.9」と異常値で、すぐに転院して入院が必要という話をされました。

私も糖尿病のことは少し知っていて、「えっ?私は糖尿病なの?糖尿病って治らない病気だよね?どうして、私が発症しないといけないの?」と涙が溢れました。

緊急入院のために転院が決まった時も、主治医は「ジプレキサ」など頓服を大量に出し、受付の人が「入院が決まった後まで、こんなに薬出さなくて、いいのにね…」と言っていたそうです。

そのことを当時仕事をしていた職場で、母が、「娘が、薬剤性ですが、糖尿病になって…」と話すと、医療に詳しい同僚から、

通常の診察なら、初診または再診料と投薬料(処方箋を出す料金)位だけど、血液検査をすれば、採血料を病院は取れる。領収書には検査料としか書いてないけど、この中には検査センターの取る検査料と採血料が含まれている。だから、検査すると病院は儲かる。そのことで、何故その病院は検査を全くしなかったんだろうね?

と、不思議がっていたそうです。

悔しかった

今の病院に移る前、私が糖尿病になったきっかけの2ヵ所目の病院は、私には無関心な病院でした。母の話しか聞かず、私が話し出すと、「黙って!」という主治医でした。

例えば、私が1番最後に受診すると、顔をこちらに向けながら、片付けをしていて、お会計の時には、「お疲れ様でした」と定時で帰る主治医でした。

その主治医が、その病院では1番上の立場で、その主治医のところだけ、受け持ちの患者数が、桁外れに多い人でした。

ある日、母が、

「普通に暮らしたい。穏やかに暮らしたいんです」と言うと、『それが高望みなんですよ!』と言われ、

「いえ、高望みなどしていません。私は大きなことは望んでいません。穏やかに、普通に生きたいだけなんです」

『それが高望みなんですよ!普通には生きられない。特殊にしか生きられない家なんですよ』

と言われて、ずっと母はそんなことないと思って生きていたけど、全然良くなるどころか悪くなる家の状況を見て、最近そう思い、あの言葉で、言う通りだったんだと思うと、今も深く傷付いている、とずっと母を苦しめる言葉となっていました。

元々この病院は、母の知人に、「娘が引きこもりで、家から出ない」と言って、紹介を受けた病院でした。「いい主治医だから」と言って、行き始めました。

私は糖尿病になった後、引きこもりが加速し、さらに荒れた生活を送り、特にその頃は、その病院を紹介した母の知人を酷く恨んでいました。

「あの病院に行かなければ、糖尿病にならなかった」と、やり場のない怒りを誰にもぶつけられず、ずっと悶々と生きていました。

ですが、その母の知人もその病院の被害者でした。知人は、うつ病と診断を受け、母から観ていて、「異常にテンションが高い日もあるな」と感じていました。

最初は、「薬のお陰で、今は元気」だと思っていましたが、ふとそれにある日疑問を感じ、「私、本当にうつ病ですか?」と聞くと、「貴方はうつ病じゃないのに、この薬を処方していた」と言われ、ブチギレて、喧嘩別れして、その病院に知人も行かなくなりました。

母の知人は、薬を飲まなくなった後、精神状態が安定しました。

我に返った知人は、母に、「そういえば、あの先生の担当の患者さんが、待合室や薬局で何か言われて、泣いていたのをよく見たんだよね。実は喧嘩別れしか人が多かったらしいよ」

と言っていたそうです。

私は転院からだいぶ経って、福岡市に行った時、あの病院のビルがまだあったので、「まだあるのか」と思って、バスの中で検索すると、知らない間に、「閉院」となっていました。

私の当時の主治医も、現在の所在地が分からない状況でした。

私が飲んでいた「ジプレキサ」は、「精神疾患を持つ人でも、出す人をきちんと選択しないといけない」と、あの後学会で決まり、どの精神疾患でも、出していい訳でもないし、人によっては薬害があることを明記されました。

もし、あの主治医が、他の患者さんにも「ジプレキサ」を出していたら、私と同じ様な薬害が生じた人もいたかもしれない。

あの当時、「医療対話推進者」という人がいたら、私も糖尿病になっていなかったかもしれないし、薬害で入院もしましたし、医薬品副作用被害救済制度という制度も、5年以内という期限内に請求できたかもしれない。

それは10年以上経って、医薬品副作用被害救済制度を知って、給付対象外で、対象となる疾患でも、申請もできず、凄く悔しい。

それでも、「糖尿病じゃなかったら、今の仕事をしていたか?」と問われると、もしかしたらそのまま引きこもりも続いていたかもしれないし、就職しても、TANOSHIKAでWEBライターの仕事をしていたかも分からない。

やりたい仕事があっても、縁がないと、どうやったって、その仕事に出会うことはない。

とても悔しくはある。でも、それらを含めて、今の私を作っていると思うと、私が糖尿病になった意味も何かあると感じています。

研修医の男女

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左耳感音性難聴と特定不能の発達障害(ASD,ADHD,LD全ての要素あり)、糖尿病、甲状腺機能低下症、不眠症、脂漏性皮膚炎、右手人差し指に汗疱、軽く両膝の軟骨すり減り、軽度に近いすべり症、坐骨神経痛などを患っているライターです。映画やドラマなどのエンタメごと、そこそこに詳しいです。ただ、あくまで“障害”や“生きづらさ”がテーマなど、会社の趣旨に合いそうな作品の内容しか記事として書いていません。私のnoteを観て頂ければ分かると思いますが、ハンドメイドにも興味あり、時々作りに行きます。2022年10月24日から、AKARIの公式Twitterの更新担当をしています。2023年10月10日から、AKARIの公式Instagram(インスタ)も担当。noteを今2023年10月は、集中的に頑張って書いています。昔から文章書く事好きです、宜しくお願い致します。