日本人が洋服を着るようになって② 昭和時代~終戦まで

赤紙

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前回、日本人が洋服を着るようになってという記事を書きました。

今回はその記事の続きの記事になります。

一つの時代が終わっても人々の暮らしや環境は、社会や家庭に影響を受け始めた時に、今後のことが気になっていたのではないでしょうか?

また、明治時代に繁栄していた鹿鳴館も数奇な運命が待っていました。そこで、鹿鳴館のその後と昭和の戦前と戦争が終わる1945年(昭和20年)について書きたいと思います。

鹿鳴館の完成から取り壊しになるまで

華やかに繰り広げられた舞踏会が、1894年(明治27年)の明治東京震災により華族会館に払い下げを受け、1940年(昭和15年)に役目を終えて、取り壊しが決定したのです。

昭和の初期1926年(昭和元年)から1930年(昭和5年)

日本人が洋服を着始めた貴族や華族の女性に遅れて、一般の女性も洋服を着ておしゃれを楽しんでいます。東京ではモダンでおしゃれな格好をしますが、大阪ではシンプルなワンピースが流行して、もっている着物を洋装にしている場合が多かったようです。

もんぺのはじまりは・・・

東北地方や日本海側地方・中部地方で、普段着や農作業用として身につけていました。着物の上からつける袴のタイプで、足首の周りを少し絞って動きやすさと作りやすかったのかもしれません。が、地方の活動衣が婦人標準服となったのです。

一般国民には普及まではいかなかったようです。

一般国民に伝わったのは・・・

婦人標準服ではなく、人の体に合ったもんぺを身につけるようになります。標準服との大きな違いは、片方ずつの生地を縫い合わせて腰と足首にはゴムを入れる形をとり、身動きがしやすくなっているようです。

しかし、日中戦争が始まった1937年(昭和12年)から戦局悪化や空襲から逃げる服装として、1942年(昭和17年)に義務付けられました。当時は、着物を再利用して上着やもんぺ、小物や防空頭巾もを手づくりしていたのかもしれません。

もんぺの素材もいろいろ・・・

木綿(コットン)・・繊維として伸びにくく丈夫で、肌触りや吸収性に優れています。しかし、縮みやすいことが欠点です。

絹(シルク)・・蚕(かいこ)からとれるまゆで、動物繊維でシルクといわれています。

紡毛糸・・保湿に優れていて、起毛加工に向いていて風合いを出すのに適しています。

梳毛糸・・繊維の向きや太さが一定で、光沢感もありウール100%でも触り心地も滑らかなのです。

かっぽう着も制服に・・・

女性が白のかっぽう着をつけて料理したり、男子(兵士)の留守家族の支援に従事していますが、国防婦人会の制服になると、兵士の送迎の時にこの格好をしていたのでしょう。

この格好を見るのは、朝の連続ドラマで戦時中を書かれている時に、かっぽう着やもんぺ、防空頭巾を頭にかぶっている姿です。

当時の写真があれば、テレビで見ているのと同じかどうかわかると思います。

もんぺ

防空頭巾とは・・・

空襲警報がなると頭を守るために国民が被って、防空壕へと走っていました。この防空頭巾は、生地と生地の間に綿を入れて分厚く作られて、頭に受ける衝撃を和らげる役割があったのでは?と思います。

まとめ

昭和の初期ころまでは人々は洋服を着ておしゃれを楽しんでいたのですが、日中戦争が起った頃から人々の服装にも変化が現れました。人々の間に「おしゃれは贅沢だ」という風習が刷り込まれて、上着ともんぺ姿に肩には小物入れを斜めにかけていたのです。

それが、1945年(昭和20年)8月6日の広島と8月9日の長崎に原子力爆弾が投下されて、戦争が終って1945年(昭和20年)8月15日が終戦記念日となりました。

戦争の悲劇を繰り返さない為には、平和ボケしたといわれるこの時代から変えていく必要があるのではないでしょうか?そんなふうに感じてなりません。

次回は戦後の復興期に西洋から入ってきた文化によって変化していく日本について書きたいと思います。

参照:

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私は関節リウマチになっていろいろな制限があります。その他にも困難なこともありますが、今その時々を楽しむように頑張っています。読書に風景・動植物にいやされています。