私のお仕事遍歴【難聴を生きる】

難聴

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こんにちは、金次郎です。

 今日は、学生時代のアルバイトも含めた、私のお仕事遍歴をご紹介します。
こうやって自分のしてきた仕事を見ると、若い学生時代は体力ありますから身体を使った肉体系の仕事、学校を卒業してからは頭を使った文科系の仕事をして来ているなと改めて感じました。
それでは少々お時間を拝借いたしまして、ご覧くださいませ。

人生初のアルバイト

  人に雇われてと言う、いわゆる雇用契約を結んでの仕事は、高校時代の新聞配達が初めてですが、縫製工場に勤めている友達に頼まれて、家で着物の仮縫いをしていた母のお手伝いとして出上がった着物を通学路途中に有る友達宅に届けて、母からお小遣いを貰っていたのを含めれば、なんと!私は小学生の頃から働いていた事になります。
 さて、本題。
 高校生になって、原付免許を取得したら当然バイクに乗りたくなる。
 最初は友達のバイクを借りて運転してみたりしましたが、やはり自分のバイクが欲しい。父に相談したら「高校生なんだから欲しけりゃアルバイトでもして、自分で稼いで買えよな」とつっけんどん。
 それで、親の許可を得て家の近くにある「配達員募集中」の新聞販売所に行って夕刊のみですが新聞配達をして、念願の原付バイクを買いました。
行動範囲が広がった私は、朝早い仕事ですがより時給の高い魚市場での荷積みアルバイトに変えました。
 これは、私はボーイスカウト活動を小学生の頃からしていたのですが、ある隊員の父兄さんで魚市場で仕入れた魚をスーパーの魚屋さんに運ぶ仕事をしている方がいて「皆さんの中で魚市場でアルバイトしたい人はいませんか?」と誘われ続けていたからです。

縁の下の力持ち

 大学に入って他県で一人暮らしになった私は、小遣いの足しにと思って住んでいたアパートから電車で15分程の所にあるデパートで閉店後のフロア清掃のアルバイトをしました。
 まずは商品をずらして清掃の邪魔にならない様にして、ポリッシャーと言う電動清掃機械で古い床ワックスを専用洗剤で剥がします。
 その後、床を水洗いしてモップで拭き取り新しくワックスを塗り、扇風機で乾かします。
閉店後の限られた時間内で行いますので「今日は何階のどの商品のフロア」と場所を区切って行っていました。

いよいよ、新入社員

 さあ、いよいよ正社員として働き出します。
 就職活動では、私は公務員試験を主に受けていましたが、やはり難しい。そんな私を見ていた父は「弟たちもいるのに就職浪人なんかさせている余裕は無いぞ。俺の勤めている会社の〇〇県にある系列会社を受けてみろ」と言うので反論できずに従いました。
 父の口添えがあったのでしょう。悔しいけれど縁故入社と言う形で就職しました。
 この会社は、主に大型コンピューターのシステムを開発する会社ですが、私が入社する5年ほど前に実用的なパソコンが日本にも登場しましたので、パソコンソフトの開発や販売も行い始めた頃です。
 私は、画像処理システムの部署に配属され、システムを購入して頂いた全国のお客様先に出向てシステムの設置から取り扱い説明等を行っていました。
 この時の、残業を含む無茶な労働時間がいけなかったのか、通勤途中の電車内で「パニック発作」を起こし7ヶ月ほど休職してしまいます。
 復職に際して総務の方から「仕事に関して、何か希望はありますか?」と聞かれましたので、お客様への取り扱い説明で人に教える楽しさを覚えた事から、新設された教育部署への配置転換を希望しました。
以後は新入社員教育やお客様向けセミナー開催の準備を行う等、この頃が仕事をしていて一番楽しくて充実して仕事していたなと思っています。
 しかし、バブル経済崩壊の影響は会社にもじわじわと影響を及ぼして来ており、ついに我社は新入社員の募集は当面行わないとなりました。
仕事が減って教育部署の仲間もどんどん辞めて行きました。
それでも会社に残っていた私は「してもらう仕事が無いから」と言われ色々な部署をたらい回しに遭っていました。
 したくも無い仕事を続けて、またもや体調を崩しかけた私は「この会社には、もう未来は無いかもな?」と思い、またもや休職を願い出て実家に戻り今回は休職期間満了解雇の道を選びました。

産業カウンセラー養成講座

 実家でブラブラして2年目「パニック発作も最近は出なくなったし、このまま無職のままだとダメ人間になってしまうな」と思って、自宅のパソコンで仕事の情報をネット検索していたところ「産業カウンセラー養成講座・受講生募集!」と言うのに目が止まりました。
 実は、教育部署で働いていた時に所属長さんがこの資格を所持しており「教育者として仕事するなら、この資格は役に立つぞ」と言われていましたので「よし!一丁講座を受講し試験を受けて、資格を取るか」と一念発起。
1年間毎週末、養成講座の教室に通い座学とカウンセリング実技実習をこなし、宿題の論文も欠かさず提出し試験を受けなんとか1回で合格し資格を取得しました。

現実は甘くない

 しかし、資格を取得したからと言って、すぐさまその資格で就職できるほど、現実は甘くありません。
 更に私は、前の会社を退職後2年ほど無職で働いていません。
 まずは、働ける身体に戻さなければ!
それで、家の近所にあるスーパーでアルバイトを始めました。
アルバイト中も、家のパソコンを見たりハローワークに行って求人情報を見ていました。
 そして遂に「教育の仕事経験者で産業カウンセラー資格所持者募集」の求人を見つけました。

仕事に悩んでいる若者達の就職支援・・だけじゃなかった

 早速、ハローワークで紹介状を発行してもらい、いざ面接へ。
面接では、面接官の一人で現場責任者の方から経験を聞かれ「前職では新入社員教育のカリキュラム作成から、総務部長による配属希望面接にも同席し、ほぼ全てを任され新人達がスムーズに配属先に溶け込めるよう配慮していました。個々に書いてもらっていた日記より、今何に悩んでいるかを把握し個別にヒアリングして悩み事の解決を手伝っていました。それは実務に入った後も、新人達の良きお兄さんとして悩みを聞いていました。」と答え採用されました。
 ここでは5年働きましたが、基本の「就職活動の仕方が分からない」だけでは無く、「今の会社で働き続けたくない・人はなんで働かなければいけないの?」等の悩みや不満、果てには「会社同僚の異性が好きになったけどどうしよう?」の恋愛相談まで聞いてあげました。

上記経験を活かして、就職支援の仕事を全年齢対象に広げる

 若者の就職支援施設を契約満了で退職したのち、次はハローワークの職業相談員としてこちらも5年働きました。
 今度は若者限定では無く、全年齢の方が対象ですが上記就職支援施設での経験が大いに役立ちました。
 ハローワークは、失業者に応募希望の会社の紹介状を発行するだけではなく、転職したいと言う方の「この会社はどんなお仕事の会社ですか?」や「私の職歴でも大丈夫でしょうか?」等の相談にも対処していました。
 しかし、ここの契約が終わる頃には私の難聴はかなり進んでいて補聴器も強力な機種にしないと声が聞き取りにくくなっていました。

障害者となり障害者就労継続支援作業所へ

 かかりつけの耳鼻科では、定期的に聴力検査をして難聴の状態を確認していましたが、遂に先生から「今のこの聴力だと障害者手帳が取得できるレベルですね、診断書を書きますから申請してみませんか?」
 と言う事で3年前に身体障害者手帳が交付されました。
手帳が交付されると、住んでいる自治体にある障害者相談支援事業所から担当者が来て、支援計画を立てて生活やお仕事のサポートをしてくれます。
 その時に担当者の方から、障害者が身体に無理なく働らける「就労継続支援作業所」と言うのがありますよと教えられました。
 と言う事で、今はこの障害者就労継続支援作業所で障害の状態を見ながら作業させて頂いていますが、いずれは一般企業の障害者枠での就職を目指しています。

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