この記事は約 11 分で読むことができます。
こんにちは、翼祈(たすき)です。
ウルリッヒ病とは、先天性筋ジストロフィーの1つとされる国の指定難病で、生まれた時から力が弱く、膝やひじの関節が固くなっていき、十分に動かせない、手足首の関節が異常に柔らかいなどの症状があります。進行性で、呼吸のための筋肉が弱くなっていくことで、10歳頃に歩くことができなくなり、10~20歳頃になると人工呼吸器を必要となる患者が多いです。遺伝子の変異が原因とされ、根本的な治療法は確立されていません。
報告されている症例はわずか300人ほどの希少難病です。そんなウルリッヒ病を広く知って貰いたいと、当事者家族などで立ち上げられた、「ウルリッヒの会」という患者の会もあります。
現在「ウルリッヒの会」の代表の男の子は、「代表になろうと思い立った経緯は、『患者会は患者自身が活動してこそ成り立つ』という強い意思があったからでした。患者会は患者1人ひとりの想いや志、それ以外にも多くの意思が創り上げていくものです。当事者自身が一歩踏み出して患者会の取り組みに参加できる先陣を切れればと思い、代表に立候補しました」と述べています。
今回はウルリッヒ病と闘っている高校生3人をメーンに、この病気と向き合います。
ウルリッヒ病の当事者の男の子が代表を務める「ウルリッヒの会」。その想いとは?
ウルリッヒ病の当事者らで構成された団体「ウルリッヒの会」の代表に2021年、当事者の1人である東京都内に住む高校1年生の男の子が就任しました。「ウルリッヒ病で悩む人に『1人じゃないよ』と発信したいです」。副代表と会計の女の子も当事者の高校生で、一緒に活動の先頭に立ち続けています。
「資料を読んで母に高校を見学してもらい、その中から車椅子でも通学できる3校に絞りました。そして僕は私立中高一貫校に進学しましたが、地元の公立中に進学していたら友人関係が途切れないメリットがありました」。
「ウルリッヒの会」が当事者や当事者家族を対象に2021年10月に開催したオンライン座談会では、当事者である自分の子どもの進学に関して質問した親御さんに対し、代表の巣鴨高校1年生の渡部耕平さんは、自らの経験を挙げ「学校の選択はご本人の意志で決めることが大事になります」と声を大にして言いました。
渡部さんは1歳ごろにつかまり立ちはできていましたが、転ぶことがとても多く、1歳半で大学病院などに検査のために行きました。ですが、「何らかの筋肉の病気」と懸念されましたが、その時には具体的な診断名は付きませんでした。小学校入学後に、リハビリのために通っていた先の理学療法士から「名前のない病気のままだと後先苦労しますよ」と勧められ、別の病院に検査に行き、10歳でウルリッヒ病だと診断を受けました。
生まれた時から握力が弱いことで、転んでも手を付けずによく顔や頭を打って怪我が多かったといいます。渡部さんは、幼稚園の頃はアスレチックにも登れました。ですが、小学校に入学し学年が上がるにつれ、身体に違和感を感じる様になりました。階段を上るのもキツくなりました。成長するに合わせ他の子ができる様になっていくことが自分は同じ様にできないことが増えていき、小学校高学年になると立ち上がることが困難となり、車椅子を使い始めました。
「サポートしてくれる同級生が大勢いましたが、冷たい態度の人もいて悲しい気持ちになりました」。その後中高一貫の巣鴨中学校に合格し、通学するために、学校近くに引っ越しをしました。移動する際には電動車椅子を使用し、入浴や着替え、トイレなどは介助をして貰います。
当事者とその当事者家族、ボランティアらが集まり、患者会「ウルリッヒの会」を立ち上げたのは2019年3月のことでした。現在「ウルリッヒの会」のメンバーは関東から沖縄まで約40人で構成され、定期的に座談会や勉強会を開催したり、国にウルリッヒ病の原因解明を要望したりと幅広い取り組みを行っています。
ウルリッヒ病だと診断を受けた後、渡部さんのために母が「ウルリッヒの会」に参加し、取り組みをスタートしました。診断を受けた当時は小学生で、実感が湧かなかったという渡部さん。母親が「ウルリッヒの会」に加入していることも、当時は理解していませんでした。
その後、中学3年生になった時、「ウルリッヒの会」の公式ホームページを更新する作業などに四苦八苦している母の様子を観ていると、ふと思うことがありました。
「家族が色んな取り組みで大変そうなことをしているのに、当事者である自分は何も行っていない」
そう気付いた瞬間、ある意思が口から出ました。
「それ、僕がした方が助かるんじゃない?」
その言葉を受け止めた母に背中を押され、渡部さんは2021年7月、「患者だからこそ理解できること、やれることがある」と考えて挙手し、代表に就任しました。最近は、大手製薬会社のウルリッヒ病の新薬開発に関連するリモート講義も受講しています。「代表に就いて病気や治療法に関して学びたい意欲が高まりました」。
代表に就任した後で、定期的に開催する集会や、研究者を招待した講演会、勉強会などの運営に携わる毎日。自分がどんな病気に罹患しているのか、より深く理解できると同時に、当事者自身が発信することが大事だと気が付きました。
情報発信を継続する中で、将来は医学の道に進学してウルリッヒ病を研究したい、病気の認知と根治を目標としたい、という強い意思も芽生えました。
中古品の買い取り金額が支援金に繋がるクラウドファンディング[キモチと。]を介して、対面でのウルリッヒ病の当事者同士の交流会の再開などに向け、資金集めもスタートさせました。「ウルリッヒ病に悩む当事者さんやその親御さんの方に、『1人じゃないよ』と発信していきたい」と言葉に力をこめました。
そんな渡部さんを同世代の仲間がサポートします。2021年7月から、いずれも当事者で高校1年生の玉置陽葵さんが「ウルリッヒの会」の副代表に、特別支援学校高等部2年生の松藤穂佳さんが会計に就任しました。
玉置さんは自宅から最寄り駅まで30分かけて電動車椅子で移動し、電車で通学します。そんな毎日をSNSで発信すると、当事者のお母さんから学校生活や受験に関する質問を受け、アドバイスを送りました。
玉置さんがTikTokに投稿した動画は、とにかくポジティブです。アップテンポな音楽に合わせて、車椅子に乗りながら制服姿で軽やかにダンスする「車椅子ですが、JK楽しんでいます!」。30秒ほどのショート動画には、ウルリッヒ病や日々の暮らしの紹介に併せて、メッセージも添えています。
自身を「車椅子JK」だと名乗ります。「車椅子と聞くとマイナスなイメージを持たれがちですが、『JK』と組み合わせることで、障害を抱える人が持たれがちな可哀想なイメージも少し少なくできるのかなと思って」。Instagramやブログなど、様々なSNSでウルリッヒ病について発信します。
玉置さんがSNSを開設したのは、高校に入学してからでした。玉置さんが2歳でウルリッヒ病だと診断を受けた当時、「不安で、ずっとウルリッヒ病に関してネット検索をしていた」と母から聞いたことが始まりでした。「私も何か発信できたら、みんなの役に立てるんじゃないかなと思いました」と話しました。
松藤さんは、特別支援学校の高等部卒業後に就職を目標に掲げています。障害者雇用で1日8時間仕事をするのは体力的にできないですが、施設就労では賃金が安く、両親から自立できないと悩みは尽きません。「同じ就職の悩みを持つ人と、改善に向けて協力したいです」と語りました。
松藤さんは4歳でウルリッヒ病だと診断を受けました。段々呼吸筋が弱くなり、8歳頃になると肺炎を引き起こして長期入院することが次第に増えていきました。中学からは特別支援学校に進学しました。小学校の友達と別れる寂しさも感じましたが、「特別支援学校では、誰もが何かしら障害を抱えています。入院や生活での大変さも気楽に話せました」と言います。
母も、特別支援学校に進学した松藤さんの成長を近くで観ていて感じていました。松藤さんは3人きょうだいの末っ子で、小学生になっても、きょうだいに甘えることが多かったといいます。ですが、高等部に上がると生徒会長に就任し、下級生の世話もしたりと、今までとは違ったシーンが目に留まる様になりました。
そんな松藤さんが就職を強く意識し出したのは、特別支援学校の高等部に進学してからでした。「早く親元から自立したい」との想いを強く抱きました。「趣味のアイテムを購入するにも、自分で仕事をして貰ったお給料で購入した方が楽しく感じますし、母を少しでも楽にさせてあげたい」とも思ったからでした。
ですが、「卒業したら、仕事をしたい。でも、私が仕事をできる場所があるかどうか分からないです」と、松藤さんの今の1番の悩みは、特別支援学校を卒業した後の就職をすることでした。
動画引用・参考:ウルリッヒの会
渡部さんは「難病だとどうやっても、何か重りを付けて歩いている感じなので、やっぱり劣等感とかを抱いてしまうがちだと思います」
「僕が代表として取り組みをしていく中で、そのことで少しでもウルリッヒ病のことを認知して頂いて、勇気を貰える人がいると嬉しいです。僕みたいに前を観て進む人がもっと増えると、普通の人でも難病を気にかけてくれる人は増えます。僕が先頭に立ち証明していくと、後に着いて来てくれる人がもっと増えるかなって思います」
と説明しました。
別れは辛い、でも。
別れは人を強くすると思います。
この間私の支援者から、「退院した母の様子が気になるから」と前もって電話があり、自宅に来ました。暫く話した後で、
「私、諸事情で地元に帰るために、退職する事になりました」
と言われて。それを言われた後から段々気持ちが悪くなり、支援者が帰った後退職を受け入れられない拒否反応で、吐き続けました。
退職は本当に急に決まり、自宅に電話した時はまだそうではなかったし、後任とか引き継ぎも全くできてないそうです。本当に半月足らずで、事情が変わってしまいました。
支援者はSNSはしていないし、仕事とプライベートは完全に分けているらしく、AKARIも会社のパソコンでしか読まないらしいので、この記事が上がる時は支援者はもう読んでいないことでしょう。
この5年間、とてもお世話になりましたが、唯一返せた恩は、TANOSHIKAに就職して、他のA型と違いくよくよ言わず、楽しく仕事をできていることを見せられたことだと思います。
支援者は帰る時、「急に退職することになり、都合が合わず、最後のご挨拶ができない人もいる」とも言っていました。
こちらのウルリッヒ病の高校生たちも、学校を卒業することで、別れも経験すると思います。別れで嫌な感情が渦巻く別れもありますが、感謝しても感謝し切れない別れもあります。
全ての別れにも、そして出会いにも意味がある。30年ちょっとしか生きていませんが、それを繰り返し、人よりももしかしたら濃い繰り返しの連続でした。
私も病気や障害で辛い時もありますが、こちらの記事で紹介した皆さんもそれ以外の皆さんも、お互いに繰り返しながらも、頑張っていきましょう。私も頑張ります。
参考サイト
noteでも書いています。よければ読んでください。
コメントを残す