この記事は約 5 分で読むことができます。
こんにちは、改めましてM. Jです。
4回目の投稿になります。今回も、肉親の介護について記事を書いていこうと思います。
身近な人に介護が必要になってくると、「介護の方法」など考え方や工夫が必要になってきます。
認知症の母の介護をしていた一方で、父親の「血液の難病」にも対応をしていました。
血液の病気は特殊な方法になり、病院との関わりがどうしても多くなります。
今回の記事を通して、難病に対する理解が深まり、対応方法の1つとして認識していただければ幸いです。
病気の概要、病気の状態
父は、血液の病気でした。
「溶血性貧血」という治療が難しい病気、難病指定になっている病気です。
2週間に1回病院に通院して、血液内科に通い、血液検査をする必要がありました。
血液内科は一般的に大きな病院しか担当する先生がいない診療科です。
赤血球の要素が足りないと、場合によっては輸血が必要になってきます。
免疫力が弱くなるので、日々の生活には気をつけないといけない状態でした。
急に状態が悪くなって救急車を呼ぶことも度々ありましたので、周りの者による体調の変化への気づきは、ものすごく必要でした。
病気の受容について 〜キューブラー・ロス〜
父は、病弱な方で、健康にはものすごく関心があったので、病院に行くことが多い人でした。
ただ、今回の血液の病気に関しては知らないことが多く、「右から左に流す感じ」もありました。自分の病気のことも、わざと深刻に考えていなかった感じです。
おそらく、自分の本当の病気を知りたくなかったのかもしれません。
病気に対する受容は出来ていなかったと思います。
病気の受容の段階を示す指標としてキューブラーロスの指標がありますが、第1段階のショック期または第2段階の怒りの間といったところでしょうか。
ですので、父と病気のことについてじっくり話すことはなかったと思います。
病院への付き添い 〜通院〜
2週間に1回病院に付き添うことになりました。
大きな病院ということもあり、診察は午前だけでした。
それも、血液内科という特殊な診療科でしたので、曜日の指定がありました。
筋力低下もあり、歩行時にふらつくことがありました。
しかし、父はプライドが高く杖をつくことをものすごく嫌っていました。
「杖で移動することは恥ずかしくない」といって、杖をついている人の映像を見せました。よって、何とか杖で歩いてもらいました。
また、父が世帯主であったため、できるだけプライドを傷つけないような対応に気をつけました。
介助は必要最小限しかしてなかったと思います。
周りから見れば、放任し過ぎているのではないかと思われるものでした。
(父の中では、介助される姿を見られたくないという思いもあったと思います)
父の性格 〜セカンドオピニオンに至る
父は、人の好き嫌いが激しい人でした。環境に対しても敏感に反応する人でした。
理容師という職業柄、神経質だったのかもしれません。
よって、クリニックや病院選びにはかなりの配慮が必要でした。
父は、納得いかないことや嫌いなことがあると、顔の表情に現れ(眉間にシワが寄る)、言葉が荒くなっていました。
一方、好きなことに対しては、穏やかになり「鼻歌を歌うような感じ」「ハイテンション」になっていました。
割と短気なところ?もあったので、何も考えずに同じことを長く続けることはものすごく嫌っていました。
よって、通院する病院(入院する病院)を考えていく必要性があったのです。
入院した後、父の納得する治療がなされていなかったので、セカンドオピニオン(他の大きな病院の治療方針を聞くこと)が必要だったのです。
セカンドオピニオン 〜終末期まで
セカンドオピニオンで、△病院から◯病院へ行くことになりました。
△病院での主治医の方針と環境に納得がいかず、セカンドオピニオンとドクターショッピング(自分の思いで病院を転院をすること)をすることになりました。
最初は父の中でも、動揺はありましたが、徐々に満足した表情で病院に通院しました。
前述したように父の性格は、人や環境に対して好き嫌いが激しく、神経質であったので移った病院でも「機嫌を悪くしないように」配慮しながら接していました。
父の顔色をうかがうことが多かったと思います。
状態が急に悪くなり救急車で運ばれて入院した後は、満足した生活を送っていたようです。
ほとんどの場面で、父の好きなことを中心に話してもらうことが多かったように思います。
今後について
興味があることや、今後書いて行きたい記事のテーマとして、感謝すべきことについて、良い病院・事業所などの選びかた、病気の早期発見があります。
皆さんに役立つ情報を届けていければと考えています。
今後ともよろしくお願いします!
→HOME
コメントを残す