久留米と私2

久留米

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辛いことがあると、必ずすることがあった。

西鉄久留米から電車に乗り込み、片道40分かけて天神に行くことだ。

今住んでいる久留米で嫌なことがあると、久留米が唐突に嫌いになる。

以前書いた記事で、トラウマでいっぱいの久留米を、TANOSHIKAのお陰で好きになれた、と書いた。

久留米と私

しかし、やっぱり嫌なことがあると「久留米嫌だなあ」と思ってしまう自分が顔を出していた。

新しく始めたお仕事をうまくできない、好きな人に振り向かれない、なんだか人間関係が億劫。
ああ、もう嫌だ、嫌だ。
久留米なんか嫌だ。

そんな日が月に一度は襲ってきて、「よし、天神に逃げるぞ!」と思うのだ。

時には、涙を流しながら電車に揺られた。
隣の人には聴こえないように、でもなるべくできる範囲の大きな音でイヤホンで大好きな音楽を聴く。
窓越しの景色は、田園風景がだんだんとビル街になっていく。
建物が増えていくにつれ、私の心臓は高鳴る。
「はやく!はやく!」
終点の天神で電車が止まると、私は我先にへと外に出て、エスカレーターを降りる。
キラキラの繁華街、たくさんの素敵なファッションの人々、華やかなお店…。
素敵なところを挙げたらキリがない。
本当に天神が大好きだった。

1ヶ月、この日のために貯めておいたお金、数千円でたくさんのものを買う。
帰りは紙袋を両手に抱えながら、また久留米行きの電車に乗る。

天神に行くたびに、私は大きな元気を貰い、そうして久留米で生きるための新しいパワーをもらう。
いつもそんな感じで、天神は、私の大事な大事な息抜き方法だった。

しかし….。

そんな時に、コロナがやってきてしまった。

福岡市内はコロナが猛威をふるい、とてもじゃないけれど、私はもう天神に足を踏み入れれなくなった。

そう、辛い時の、久留米が嫌いになった時のための、私の唯一の心の逃げ場が消えてしまったのだ。

最初の数ヶ月、本当に精神状態が苦しかった。
まるで、久留米という牢屋に閉じ込められたような、そんな窮屈な気分だった。

久留米で嫌なことが起きる度に、
「もう久留米から出たいよ、早く天神に行きたい!」
心の中でずっと叫んでいた。

コロナは一向に止む気配もなく、何度も何度も波がやってきて…。
そんな感じなので私は天神に行くことを諦めた。
諦めた途端、少し気づいてしまったことがあった。

私は、どの街にも文句を言って、いつも嫌なことがあると違う場所を美化し、逃げるなあ、と。

子どもの頃、私の家は転勤族だった。
いくつか引越しをして、引っ越す度に別れと、そして出会いがあった。

当然、引越し先のどの場所でも嫌なことが起きた。

その度に、私は、Aという街からBという街に住んだら、次はAに戻りたいと言って、Bという街からCという街に住んだら、Bに帰りたいと言う。
そんな子どもだった。

天神という逃げ場もそう。
福岡市内にいた時も辛いことは山ほどあったというのに、今では久留米で嫌なことがある度に、福岡市内を美化して、逃げる。

私の人生、そうやって文句ばっかり。
どの街も憎んでばかりだ。
これだったら、キリがないなあ。

コロナ渦で、久留米に閉じ込められながら、ようやくその事に気づく事ができた。
いや、本当は心のどこかで気づいていた。
でも、ずっと見ないフリをしていた。
それを、ようやく、コロナのお陰で正面から向き合う事ができた。

コロナの波が少し去る度に、私は天神ではなく、久留米の色々なお店を回るようになった。
どの料理屋さんも本当に美味しい。
そして、店員さんがびっくりするほど温かい。
みんな優しい。

私は以前よりもっと久留米が好きになった。

なんだ、久留米で嫌な事があっても、案外久留米の中で心を浄化できるんだな。

そんなことを思えた。

私は嫌な事があっても、もう天神には行かなくなった。
もう、天神を必要以上に美化することもなくなった。

最近、だいぶコロナが落ち着き、久しぶりに天神に行った。
1年半ぶりだった。

もちろん、綺麗だった。
久留米に比べたら、おしゃれかもしれない。

でも、もう昔の自分のように、「やっぱり久留米より天神だ。」と思っている自分が綺麗さっぱり消えていた。
むしろ、「私は久留米の方が大好きだな」と心から思えていたのだ。

それは、私が初めて、今住んでいる場所を心から許容できた瞬間だったと言える。
そんな自分に気づけたことが嬉しかった。
私は、転勤族でどこにも馴染めず、どこにもふるさとがなく、いつも本当の心のふるさとを探していたんだと思う。

でも、心がけひとつで、どんな場所でも、綺麗なところがあって、綺麗なところを見ようと思えば、どこでも住んでいるところが1番のふるさとになれるんだ、とその時心から気づくことができた。
いつも、いつも心の逃げ場所を作っていた私。

そんな私が、「今住んでいる場所が1番」と初めて思えた。
泣きそうなくらい嬉しかった。

コロナがだいぶ落ち着いてきたというのに、私はもう天神に行こうとは思わない。
私は、久留米で力一杯生きていきたい。
そう思っている。
もう、逃げることなんかしないで、その街でいつも笑っていられる人間になりたい。
どの街でも笑っていられる人間になりたい。

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4 件のコメント

  • 記事を読ませていただきました。
    嫌いな場所だったのが好きになれるっていいことだと思います。
    考えさせられることに気づかされて、今の私が地域だけでなく他のことも含めて逃げていることで疲れやストレスを抱え込まないようにしていたのを、立ち止まることを教えてくれてありがとうございます。

    • パグさん、コメントありがとうございます。

      この記事を読まれて、何かを感じていただけたのならこんなに嬉しいことはないです。

      ありがとうございました。

  • 色々読ませて頂きました。
     自分は、博多に住んでました。
     私は、博多が家族が嫌いでした。子供の時から夏休み、冬休み、長い休みのたびに久留米の親戚の家に逃げ込んでいました。piasuさんと反対ですね。
     久留米が大好きでした。しかし、大学生の時、精神的な病気がひどくなって休学、福岡から逃げるように久留米の親戚の家に居候しました。
     そこでの生活は、始めのころは順調で病気も良くなってたのですが、突然、親戚の家のトラブルに巻き込まれ大変な目に合いましたた。病気療養どこではなく大変でした。トラブルが解決したら早く福岡に帰れと言ってきます。だけど、親戚の家は、全員心が傷ついて、ほっとけない自分は福岡に帰らず久留米に残って親戚の家が正常に戻るまでいました。
     本当に大変でした。自分の病気はあまりに良くならない、自分のこと厄介者扱い、さんざんひどいこと言われて、久留米が嫌いになりました。亡くなった祖母は自分がされたことをわかってたから、二度と久留米に来なくていいよと言ってくれました。
     最近、久留米に何度も行く機会がありました。やっぱり久留米が大好きでした。
     今、やっと病気の治療が進んで、色んなことがやっと逃げずに考え感じるようになりました。
     今は博多が大好きです、どんどん好きが増えてます。もっと博多、福岡のために何か自分が役に立つ事はないかと考えてます。今、勉強中です。
     久留米と福岡、piasu さんと逆。
    ごめんなさい、長くなりました。最近、投稿など色々覗かせてもらってます。piasu さん応援してます。

    • 宮嵜英樹さん、コメント、そして応援のお言葉ありがとうございます。
      とても嬉しいです。

      久留米と福岡、確かに逆ですが、近い感情を持っておられる方がいるということがなんだかそれも嬉しかったです。
      今は、「博多が大好きで、福岡のために何か自分が役に立つ事はないかと考えてます。今勉強中です。」このお言葉を読ませてもらい、心の中に気付きがありました。
      自分はまだまだその気持ちまでには到達できていないけれど、とても素敵な感情ですね。

      応援もありがとうございます!
      これからも頑張るぞ!と勇気をいただきました。

      本当にありがとうございました!!

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    ABOUTこの記事をかいた人

    発達障害と双極性障害を持っています。20代女。 趣味:おしゃれ全般、資格取得、ネットサーフィン、文章を書くこと。 🤍noteも書いているよっ!