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人はこの世に誕生して老いてゆく間に、時間とともに変化する環境と社会につき合って自分らしく毎日を過ごしていくか?真剣に考えているでしょう。選べないのは親と発展を続ける社会そしてそれに溶け込むことができるかどうかなのです。
私の育った家庭
私の家族は両親と子供6人で、その中には仕事や家族を持って家を出た人もいたのです。物心ついたときには両親と4人の子供と食卓をいつも囲んでいました。亡くなった両親は一人一人を同じように育てていましたが、それぞれに子どもには個性があったのです。「おっとりした子ども・活発な子ども・反発した子ども・親の信頼があった子ども」などいったらきりがないけどねぇ~
そんな中でも全員(子供)に共通しているのは頑固で融通がきかない、それに年をとったら気が短くなったと感じるようになり、本当に思いもよらないことでした。
自分中心、行き先をつげない、気に入らないと人に当たる。父方の性格と母方の性格を受け継いでくるのだから避けては通れないし自分が社会と関わって少しでも嫌な部分を変えられたらどんなにいいだろう?と考えてしまうのはこの年になってからです。
私の家は農家
家では、肉、魚、お弁当のおかずと他に家にない野菜を買っていました。
裏の畑ではナス、キュウリ、ネギ、葉物、お花(菊?・つつじなど)、柿、梅(白梅・紅梅)で梅の実をとって梅干を作り、小梅はお店から買ってきてお弁当用の梅干を作っていました。
農家だったので、もみがらのついた米から芽が出て田植えの時期まで成長させて田んぼに植えて黄金色(黄色く色ずいた)になり重くなった稲穂の刈り取りを大人がしていました。
家で食べられるようにもみを取り除いて白い米粒にするのですが、なんと!炊いたご飯に石が混じっていることがよくあり見た目ではわかりにくかったのがすごく嫌でした。
私が生まれ育った環境では大家族で夕ご飯の時には出来た料理を大皿を使ってテーブルの上にのせ小皿に取るようになっていました。また大きな鍋の煮込み料理はそのままテーブルの上に、サラダも大きな器を使い小皿に取り分けていました。
大きな鍋のその一例として
・カレー
・魚の煮付け
・シチュー
・年末で作られていたがめ煮(筑前煮)
などがあります
私が育った環境
今とは違い田舎で人との交流があった時代でした。少しのことでも「どうした?」と声をかけがあったのです。
ささいなことでも見守りがあっからこそ平和な社会だったと言えた。当時は舗装された道路とじゃり道のところがあり、じゃり道は歩きにくいなぁと感じていたけどその時はどこへ行っていたのか記憶がありません。どんな時でもいつも見守っているから大丈夫だよ!という安心を大人の人が与えてくれました。
まとめ
私が過ごした環境、家庭、地域どれをとってもいい時代だったのか?といわれると「分からない」とこたえるでしょう。まさか自分が何十年かたって病気(関節リウマチ)で希望や夢が消えてしまうなんて思いもしなかったから、どん底に落とされたような気分になっていました。
そして今だに見つけられない希望や夢が続いてつらいです・・・・(一日でも早く見つけたい)
今回私がこの記事を書くことにしたのは、自分が人にどう接してきたのかを今一度見直すことができればという気持ちと、忘れていた何かを思いだせたらいいなぁと強い気持ちがはたらいたからでしょう。
少しでも変えたいという気持ちで頑張ります。
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