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〜皆さんにも伝えたい 戦争体験を持つ両親から聞いたこと〜
いつもAKARIを読んでくださりありがとうございます!
戦後まもなく79年を迎えようとしています。
世界中で今も無くならない戦争の報道がされるなか、私は戦争を体験した両親のもと育ち、その私が記事にする事で皆さんに何かを感じて頂ければと思います。最後まで読んでくださるとありがたいです。
私には海軍飛行予科練習生に少年兵として志願した亡き父、そして広島出身で父親を戦争で亡くし、また原爆で親戚を亡くした母がいます。その両親から戦争の話を聞いたのは、父が亡くなる数年前のことでした。ふたりとも、戦争で起こったことを話さずにずっと口を閉ざしていました。
その両親から聞いた話を書きます。
文章の中で、言葉遣いや描写に読みづらい部分があります。あえてそのまま載せますが、どうかご了承ください。
〜15歳で少年兵として志願した父のこと〜
今、世界のあちこちで戦争が起き、毎日のように伝えられる戦争の悲惨さ、残酷さ。国を守るために、家族のためにと、戦っている人がいる。
父も五人兄弟の長男として、軍国主義の教育の中で、日本国の勝利を信じ、15歳で海軍飛行予科練習生となりましたが、戦地には行かないまま終戦を迎えました。父は戦時中のことを記録を残していましたが、私たち娘に話してくれたのは、亡くなる数年前でした。
戦時中の出来事は映画などで目にしても、あくまでも想像でしか理解できず、実際に体験した人にしか分からずどんなに辛い体験だったかのかと思います。
よく戦争体験者は皆、戦争について口を閉ざす、と聞きますが、私の父もそのひとりだったかもしれません。
その父が話してくれたことは次の世代に語り継いで欲しいとの願いだったのではと思い、亡くなる前、父が新聞に投稿した記事をご紹介させてください。これは、あくまでも父が戦時中に経験した出来事のほんの一部です。
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「気絶した新兵 叩き続けた上官」
父の反対を振り切り、海軍飛行予科練習生(予科練)になったのは、1945年春。15歳だった。配属先は宝塚海軍航空隊陸戦隊。戦況悪化で練習機もなく飛行機乗りの夢は消えた。何かと制裁を受けた。海軍精神注入棒なる直径15センチほどの木の棒があり、手旗信号を読めなかった時は尻に5発くらった。しゃがめなくなって半月ほど四つんばいで用を足した。父は正しかったと何度涙したことか。ある日、分隊長の講演があった。ミッドウェー海戦の惨敗など聞いたこともない話を、信じられない思いで聞いた。だが、毎日の訓練で疲れ切り、思わず舟をこぐものも多かった。
講演後、分隊長が退室すると「待て」がかかった。海軍の「待て」は絶対だ。班長が1人を指さし「貴様、寝ておったろう!海軍精神注入棒50本!」。1発で彼は「ウン」とうなって倒れた。気絶していた。だが班長は「誰か支えろ」と命じ、50発叩き続けた。「海軍は死のうがケガしようが言ったことは最後までやり通す。覚えておけ!」思わず身震いした。気絶した彼はぐしゃぐしゃになった尻の肉が骨と離れ、終戦まで退院できなかったそうだ。
無職 U.Y(福岡県88歳)
2018年10月15日 朝日新聞 〜声 語りつぐ戦争〜 投稿記事より 原文のまま掲載
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時戦下、人は本来の人格を失うのではないかと思います。父から聞いた話では、聞くに耐えられないような虐待が日常茶飯事に訓練という名のもと行われていました。
父は入隊して宝塚から博多、大分へと転戦し、その中で宝塚や大分でアメリカの戦闘機からの銃撃を何度も受け、目の前わずか4〜5メートルのところに銃弾が飛んでくるような恐ろしい体験、宝塚では爆撃を受けた後の片付けに向かい、銃撃で亡くなった人が筵で覆われて横たわっている中、馬が目を剥いて死んでいる姿を目にし、身の毛がよだち足がすくんだ経験をしました。
戦況が悪化するなか、少年兵だった父を可愛がってくれていた17、18歳くらいの年上の隊員たちが、わずかな燃料を積んで特攻隊として大分の海軍基地より飛び立ち、沖縄沖のアメリカの艦隊に向かって行くのを手を振りながら見送った時は涙が込み上げて辛かったと話してくれました。この時に沖縄の空へ向かって行った隊員たちは、敵艦に向かう事もできないまま、ほぼ途中で撃墜され、若い命を落としました。
〜戦争で父親を、広島の原爆で伯母を亡くした母について〜
次に母のことについても触れさせていただきます。
私の祖父である母のお父さんは、太平洋戦争が始まって招集を受け、中国の柳州にて戦死。戦争が終わってから、帰りを待ち侘びる家族のもとに届いたのは、戦死の通知と一緒に届けられたのは、戦地で亡くなった祖父の髪の毛と爪が入った木箱が一つでした。それから79年間、遺骨は家族の元に戻ってくることはありませんでした。
その話とともに広島で起きたことを私たち姉妹や私たちの夫や子供たち家族に話をしてくれたのは父と同じくここ数年のことです。
母は広島と島根県の県境が故郷で、当時13歳だった母。広島に原子爆弾が投下された日の朝、広島市内の方角には最初オレンジ色に空が染まり、大きな黒い雲が広がったのを鮮明に覚えていました。今では原爆ドームと呼ばれる原爆の遺構のそばには、幼い頃、夏休みに遊びに行き可愛がってもらっていた伯父の家がありました。伯父と従姉弟たちはその時、被爆地の側にはおらず命は取り止め、原爆が投下されて約2ヶ月後、広島市内から120キロ離れた母の実家にたどり着いたのですが、伯母は被曝し母の実家までたどり着く事なく、亡くなりました。13歳の母は会うことはなく、伯母の身体は、原子爆弾の熱線で全身の皮膚が赤く焼けただれ、ボロボロと身体から肉が剥がれ落ち、その皮膚を引きずり、この世のものとは思えない姿だったそうです。
戦争で、母は父親も伯母も亡くしました。母の家はその後、原爆で家を失った伯父や従姉弟たちとの共同生活を送ることになり、戦後の食糧難のなか大所帯になった生活はとても苦しく、大変だったようです。
思い出すだけで辛い時代を生き抜いてきた母。今、世界のあちこちで悲惨な戦争が続いていて、そのことが毎日ニュースで流れるたび昔のことが思い出され、心を痛めていると言います。
〜核兵器の恐ろしさ〜
原子爆弾は広島、長崎に落とされました。そのことにより、あっという間に様々なものを吹きとばし、破壊し無差別に大量殺戮が行われました。また大量の放射線が放出され、人体に深刻な影響を及ぼしました。当時、原爆による死者は広島で約14万人、長崎で約7万4000人だとされ、その後も原爆がもたらした影響は、未だ続いています。爆心地から約1キロメートル以内にいた人は、致命的な影響を受け、多くの方が、数日のうちに亡くなりました。無傷だと思われた人たちの中にも被爆後、月日が経ってから発病し、亡くなった例も多くありました。原爆は長期間にわたり放射能が地上に残留し、直接被曝していなかった人の身体にも深刻な障害を与えました。
今もなお、広島と長崎には、赤十字原爆病院があり、一般の患者さんの医療とともに被曝された方の治療を行なっています。原爆が投下されて79年経った今もなお、病気と闘う方がいらっしゃるという事です。核兵器は長期にわたって人々に凄惨な心の傷と共に人体にも恐ろしい影響を残します。
しかし、核を保有する国は2023年6月現在、アメリカ、ロシア、フランス、イギリス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮の9カ国で、地球上に存在する核弾頭の総数は推定約12,520発とされています。
恐ろしい数です。これが使われたとしたら、地球は人類もすべての生物も、どうなってしまうのでしょうか?
*参考:長崎大核兵器廃絶研究センター
https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/
〜戦争がもたらすもの〜
核兵器が万一使用された時の犠牲者についての試算が行われ、もしも、北東アジアで核が使われた場合の犠牲者は最大300万人を超えるとの新聞の記事を目にしました。核をめぐる情勢が厳しさを増していますが、”強化された核抑止は、かえって地域を安全から遠ざける“としています。
核が使用されるのは、“広島“と“長崎“が最後であってほしいと心から願ってやみません。
また、毎日のように報道されており、皆さんもご存知かと思いますが、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエル軍によるガザ地区への侵攻、その他の国でのアフガニスタンやシリアでの紛争。それによって、人々は大切な家族や大切な人を亡くし、住む家も無くすことで、長期にわたる避難生活を強いられ、まともな食糧もなく医療も受けられないなど、心身ともに過酷な状況に追い込まれています。
戦争や紛争が起こる事によって、大人も子どもも、高齢者も多くの方が犠牲になり、また人々は心に深い傷を負い、栄養不足に陥り、貧困にあえぐ姿がテレビなどで映し出され、その出来事は、79年前、日本においてもあった事であり、現在も他の国だけの人ごとではないように感じています。
*参考:西日本新聞「もしも核兵器が使われたら」令和6年5月11日掲載記事より
*参考:長崎大核兵器廃絶研究センター
https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/topics/43620
〜終わりに、平和を繋ぐ〜
今回、戦争のことについて両親から聞いた事をもとに記事を書きました。戦争の実体験を聞いた時には、胸がつぶれるような思いとともに、よく生き残ってくれたという思いと、その事が当たり前ではなかった事だったとの思いを強く感じました。今の平和が多くの犠牲になられた方々のうえに成り立っている事を深く思います。
戦争は、大人も子どもも、お年寄りも、全ての人に身体にも精神的にも甚大な影響を及ぼし、その事がその人々のその後の人生において長く心に影を落としていると、私が話を聞いた中で感じました。
世界のあちこちでは戦争や内紛が続いており、また、核に頼った戦争抑止の考え方がなくなりません。戦争体験者たちの高齢化が進み、戦争の悲惨さや核の恐ろしさを伝えてくれる世代の方も減っており、79年前に日本で起きたことに対する風化がおきてるのでは?と不安に感じています。
母は現在92歳で広島の高齢者施設で過ごしています。今年の広島の原爆慰霊の日に届けるため、施設では利用者さんと施設の職員さんが、世界の平和を祈りながら、毎日千羽鶴を折っています。
私も微力ながら、両親の話を含め戦争の悲惨さを記事に書くことで、AKARIを読んでくださるみなさまに少しでも戦争の怖さについて知っていただく機会になって、平和を繋いでいく事ができたらと考えています。
また、母の知り合いで、癌と闘いながら、これまで被曝体験者として惨劇の体験を語り継ぐ活動をされていらっしゃる新井俊一郎さん(92歳)の記事と、今年の沖縄全戦没者慰霊の日において高校生の仲間友佑さんが朗読された詩を下記のサイトでご紹介していますので、ぜひ、皆さんにも読んでいただきたいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
makoでした。
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*参考:NHK WEB特集「もうあとがない」ステージ4のがん患う91歳託す思い
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230806/k10014149361000.html
*参考:令和6年沖縄全戦没者慰霊式 平和の詩「これから」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240623/k10014489711000.html
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