この記事は約 5 分で読むことができます。
ヤングケアラーだった私
ヤングケアラーだった私が、まだ20代真ん中くらいの頃、父が重度の肝臓病から「肝性脳症」になっていた頃の話をしたいと思います。
ヤングケアラーとは?
ヤングケアラーとは、家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子どもを指す。ケアが必要な人は、主に、障がいや病気のある親や高齢の祖父母、きょうだい、他の親族である。
私がヤングケアラーで、親の介護をしていた時の記事があります。
ぜひ一読下さい。
やっかいな病気「肝性脳症」
「肝性脳症」とは、
肝性脳症は、重度の肝疾患がある人において、正常なら肝臓で除去されるはずの有害物質が血液中に蓄積して脳に達することで、脳機能が低下する病気です。肝性脳症は、長期にわたる(慢性の)肝疾患がある患者に発生します。肝性脳症は、消化管での出血、感染症、処方薬を正しく服用しないこと、その他のストレスによって誘発されます。
「肝性脳症」を発症すると、「意識障害」、「異常行動」、「はばたき振戦」などの神経症状が現れます。
私の父の場合は、「意識障害」と「異常行動」が多かった気がします。
軽い症状の場合は、まず会話がかみ合わなくなりました。「ごはん食べる?」の問いかけに「昨日、車は修理に出した!」と支離滅裂な会話が始まるのです。
重い症状の場合は、何もない壁にむかって「開けろ!」と言ったり、朝に声かけをすると返事はするけれど、起きられない意識障害を起こしたりしていました。
救急車に乗車拒否
「肝性脳症」をおこしてしまったら、病院に連れていかなければいけないのですが、不思議な話で、どれだけ意識障害を起こしていようと、会話が支離滅裂であろうと、救急車にだけは「乗車拒否」するのです。
本能で、嫌なことは分かっているようで、救急車に乗せようとすると「嫌です。」とはっきりと答える父。
救急車は「嫌だという人は乗せれない。」と「乗車拒否」されてしまうのです。
一度は、明らかな異常行動が見られたので、なんとか押さえつけて乗せてもらえましたが、一度拒否されてしまうと、どうしても次も拒否されるのでは?と救急車に乗せることができませんでした。
限界に達した私は…
父の晩年は、この「肝性脳症」に度たびなり、何度も入退院を繰り返すようになりました。
「肝性脳症」になるたびに暴れる父を、車に無理やり乗せて病院に行ったこともありました。
運転している私の髪を鷲掴みにされて、蹴られたこともあります。
そんな思いをして、病院に連れていき、治療を受けると徐々に、意識がはっきりしてくるのですが、本人は暴れたこともなぜ、病院にいるのかもわかっていません。
脳症で、暴れている間の記憶はまったくないのです。
「なんで入院なんてさせた!」と責められることもありました。
何度目かの脳症で入院した時に、「よくなったらすぐ退院ですよ。」と、主治医に言われた時に限界がきてしまいました。
そのころは、2週間に1度のペースで脳症になっていたのです。
母の介護もあるので、入院しては、すぐ退院して、また入院して…と繰り返される日々に、限界がきてしまった私は、思わず
「分かりました。次に脳症になったときは、何かで殴りますね。大けがすれば、長く入院してくれますもんね。」
と真顔で答えてしまったのです。
そのころは、父のお見舞いや、入退院の手続きなどが毎週のようにあり、母の介護もあったのでよほど大変だったのか、記憶があまりありません。
ただ、「殴る」のセリフを言ったときの主治医の顔は覚えています。
あわてて主治医は、「ご家族も介護などで、限界のようなので、お父さんは長めに入院できるようにしますね。」とおっしゃってくださいました。
私は内心、「よかった!」ではなく、「殴るからいいのに…。」と思ってしまいました。
主治医にそんな物騒なことを言ったのは、それが最初で最後です。よほど限界だったのでしょう。まともな判断が私もできなくなっていたのです。
介護が終わって思うこと
あのころは大変だったと、思えるほど記憶がないのですが、「殴る」と言ったときの主治医の顔は忘れられないなぁと思います。
そんな暴れん坊だった父も亡くなり、母も追うかのように亡くなりました。
完全に介護から離れた今だから、こうやって記事にすることができるまでになったんだと思います。
懐かしいような、でももう二度と経験したくない思い出です。
参考サイト
肝性脳症 – 04. 肝臓と胆嚢の病気 – MSDマニュアル家庭版
noteはじめました。こちらもどうぞ
コメントを残す