東京パラリンピック1964&2020

パラリンピック

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東京パラリンピック1964

とうとう東京オリンピック2020が開催されました。新型コロナの問題など、様々な困難や開催延期を乗り越えて、やっとオリンピックがはじまります。

オリンピックには、それぞれの思いがたくさん詰まっているでしょう。それは、私も同じで、私の手元には1964年の第一回東京オリンピックの記念硬貨があります。

 

 

 

※実際に持っている100円の記念硬貨です。

 

どのタイミングで貰ったかは覚えていませんが、祖父からもらったのだけは覚えていました。

第一回のオリンピックの映像が連日、ニュースなどで流れるたびに思うのが、当時の「パラリンピック」はどんな感じで開催されていたのだろうという、小さな疑問でした。

パラリンピックのために奔走した一人の医師

パラリンピックの起源は1948年、医師ルードウィッヒ・グッドマン博士の提唱によって、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院内で開かれたアーチェリーの競技会です。 第2次世界大戦で主に脊髄を損傷した兵士たちの、リハビリの一環として行われたこの大会は回を重ね、1952年に国際大会になりました。

引用:パラリンピックとは|パラリンピック情報|東京2020大会開催準備|東京都オリンピック・パラリンピック準備局 (tokyo.lg.jp)

そして、東京パラリンピックのために奔走した一人の日本人医師がいます。

彼の名前は、中村裕(なかむらゆたか)医師。1927年、大分県別府市に生まれ、九州大学医学専門学校(現・九州大学医学部)に学び、国立別府病院整形外科科長を務めていた人物です。中村医師は、リハビリテーションの研究のためにイギリスに渡航した先にいたのが、ドイツ人医師のグッドマン博士でした。

グッドマン博士のもとで、「重度の障害のある脊損患者の85パーセントが6カ月で社会復帰する」という驚きの実績を目にして、中村医師はグッドマン博士の「手術よりスポーツ」という新しいリハビリテーション治療を日本に持ち込んだのです。

グッドマン博士のもとで、スポーツによる治療の素晴らしさを学んだ中村医師は、スポーツを用いたリハビリテーションを始めると、61年には大分県身体障がい者体育協会を設立し、第一回体育大会を開催をしました。

開催にあたっては、「治療は安静が一番」「選手がけがをしたらどうする」などの多くの批判がありましたが、中村医師はスポーツが障がい者の治療にためになるという確信がありました。

念願のパラリンピック

その後、中村医師は第11回ストーク・マンデビル競技大会へ2名の日本人を参加させました。参加にあたっては、資金難にあい、中村医師は自身の自家用車を売却して、資金を用意しました。そんな中村医師の行動や、グッドマン博士の働きかけもあり、この大会への参加をきっかけに東京パラリンピックの開催が決定したのです。

パラリンピックのルール

みなさんは、パラリンピックのルールなどは知っていますか?

健常者とは違い、様々な障害がある選手たちが、公平に競技に参加できるように多くの工夫があります。

現在のパラリンピックでは、どんな障がい者の人でも、公平に競うために障害の程度でクラス分け制度があり、ルールなども障害にあわせて工夫してあり、使われる道具にも工夫がしてあります。

例えば

 

水泳

水泳は水中からのスタートができます障がいによって飛び込みスタートが困難な選手は水中から、場合によってはコーチのサポートでスタートができます。

 

 

 

 

 

 

シッティングバレーボール

プレー中はでん部を床につける
座った状態で行うバレーボールのため、
ネットの高さやコートの広さも変更しています。

道具も工夫が凝らしてあります。

陸上競技用(レーサー)…空気抵抗をおさえた低姿勢で高速走行を実現しています。

3つの車輪があり、マラソンの下り坂では、時速50kmに達することもあります。

 

 

 

 

 

 

陸上競技用…“体の一部”としてさまざまな動きをサポートするのが義足。

義足は、板を曲げたような形状をしているカーボン製で反発力があります。接地部分には、スパイクと同じくピンが取り付けられています。また走るだけではなく跳ぶことも可能で、選手たちは想像を超えたパフォーマンスを見せます。また義手はスタート時の補助や、走行中のバランスを取る役割があります。

 

 

 

 

 

 

車いすバスケットボール用…急激なターンやダッシュ&ストップ

コートにタイヤのゴムが焦げたにおいが漂うほど激しいプレーをすることがあります。

参照:日本パラリンピック委員会|パラリンピックとは|コラム:スポーツと用具(夏季大会) (jsad.or.jp)

1964年東京パラリンピックを終えて

1964年の東京パラリンピック大会では、金1、銀5、銅4と全体の13番目という成績で終わりました。

しかし、中村医師は複雑な思いに駆られていました。外国人選手は試合後も行動的で明るく、ほとんどの人が仕事を持っており障害のない人と同じような生活をしていました。一方、日本選手は弱々しく顔色も暗く、53人中仕事をしているのはわずか5人、他は自宅か療養所で世話を受けていたのです。この格差は、中村医師に「これからは慈善にすがるのではなく、身障者が自立できる施設を作る必要がある」と解団式で述べさせました。また、身障者スポーツの意義について「一般に社会は身障者の能力を実際以下に低く評価する傾向があるが、第3者に彼らの能力を再認識させるよい機会を与えることになりその意義は大きい」と、著書の「身体障害者スポーツ」(南江堂)のなかで述べています。

引用:中村裕博士とパラスポーツ | 社会福祉法人 太陽の家 (taiyonoie.or.jp)

スリーアギトス

ここにパラリンピックのシンボルマークがあります。(※イメージ図です)

このシンボルマークは「スリーアギトス」と呼ばれています。 「アギト」とは、ラテン語で「私は動く」という意味で、困難なことがあってもあきらめずに、限界に挑戦し続けるパラリンピアンを表現しています。 赤・青・緑の三色は、世界の国旗で最も多く使用されている色ということで選ばれました。

その意味の通りに、中村医師は1965年、「保護より働く機会を」をモットーに「太陽の家」を設立しました。保護にたよる日本の福祉を変えようとしたのです。また社会に対しては「世に心身障害者はあっても仕事の障害はありえない。太陽の家の社員は、被護者ではなく労働者であり、後援者は投資者である」と啓蒙。オムロン・ソニー・ホンダ・三菱商事・デンソー・富士通エフサス等の企業と共同出資会社をつくり、多くの重度障害者を雇用しました。

参照:中村裕 (医師) – Wikipedia

2020東京オリンピック・パラリンピック

もし、2020東京オリンピック、パラリンピックを中村医師が生きて見ていたらどう思ったでしょうか?

様々な思いがこもった東京オリンピック、パラリンピックがはじまります。

 

参考サイト:

1964年東京パラリンピック大会 「未来」見据えた最初の一歩 – オリンピック・パラリンピックのレガシー – スポーツ 歴史の検証 – 特集 – 笹川スポーツ財団 (ssf.or.jp)

日本パラリンピック委員会|パラリンピックとは|コラム:ルール(夏季大会) (jsad.or.jp)

【オリ・パラ今昔ものがたり】障害者スポーツの先駆者、中村裕を思う | 日本財団 (nippon-foundation.or.jp)

中村裕博士とパラスポーツ | 社会福祉法人 太陽の家 (taiyonoie.or.jp)

中村裕 (医師) – Wikipedia

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2 件のコメント

  • 記事を読ませていただきました。パラリンピックが開催されたことやいろんな情報を知るきっかけをありがとうございます。
    素敵な記事を楽しみにしています。

    • いつもコメントありがとうございます。私もたまたま持っていた記念硬貨がきっかけとなって調べてみたのですが、本当に面白い歴史があるんだと思いました。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    TANOSHIKAライター。うつ病、AC(アダルトチルドレン)、機能不全家族育ち。現代詩を勉強中です。セクシャルマイノリティ当事者。読みやすい、わかりやすいをモットーに様々な記事を書いていきます。