同調圧力とは?〜ブラック校則を通して考える〜

ブラック校則

この記事は約 8 分で読むことができます。

靴を揃える

ある小学校教諭の講義を受けたことがあります。

その教諭は「靴はつま先と踵、どちらを自分が見える位置に揃えたらいいでしょうか?」と質問したので、私は手を上げて答えました。

「つま先を見えるように揃えた方がいいです。特に男性の靴は色が黒が多く、似たような形のものが多いので、つま先がよく見えるように揃えた方が誰の靴か見分けがつけやすいと思います。」

すると、その教諭は苦笑いを浮かべて、「踵を自分が見えるようにしたほうが綺麗に揃えられます」と言いました。

私は、え?と思い、反論しようかなと思いましたがやめました。

そして、心の中で「ああ、学校ってそういうところだったなぁ」と呟きました。

 

要は、つま先か踵かどちらが見えるように揃えるかが重要ではなく、コミュニケーションの入り口としてその質問をし、結論として、きちんと靴を揃えましょうということを言いたかったようです。根が生真面目で馬鹿正直な私はその質問をそのまま真に受けて真剣に答えてしまいました。

 

空気が読めない。それが私のいいところであり、悪いところでもあります。

 

小学校の下駄箱を思い出すと、踵が見えるように揃えて入れていた記憶があります。全員が同じように均一に揃えられた下駄箱は確かに見栄えがいいです。


下駄箱

それと同時に有無を言わせない同調圧力を思い出し、一気に息苦しくなったことまで思い出しました。

そもそも同調圧力とは、

同調圧力(どうちょうあつりょく 英: Peer pressure、ピア・プレッシャー)とは、地域共同体や職場などある特定のピアグループ(英: Peer group )において意思決定、合意形成を行う際に、少数意見を有する者に対して、暗黙のうちに多数意見に合わせるように誘導することを指す。

引用;Wikipedia   同調圧力

同調圧力のメリット

同調圧力が悪いことばかりではないと思います。

日本は古来から地震が多い国であり、自然災害に見舞われることが多くあります。

 

もし、学校で地震があったとき、全校生徒を速やかに避難させなくてはなりません。そのためには落ち着いて上履きを履き替える必要があります。そのとき、下駄箱の上履きがグチャグチャにおいてあったら、一瞬で取り出し、履き替えることが難しくなります。普段から綺麗に揃えておけば、災害時、気が動転していても、速やかに上履きを履き替えることができるでしょう。

 

すなわち、「靴を揃えておく=生き残る可能性が高くなる」と思うのです。

 

普段から無意識でやっている礼儀作法にはこういった隠れた合理性があると感じます。

ゆえに、同調圧力に従って生きる方が的確であると無意識に思っている人が多く、従わない人を自分勝手な人と思ってしまう心理が私たちにはあるように思います。

 

学校の先生たちはそういう根拠を教えずに闇雲にそれが正しいと教えているような気がしてなりません。先生自身の快、不快で判断しているところがあるように思えます。

大阪の黒染め校則訴訟

同調圧力のデメリットを具体的な事例を元に検証してみようと色々調べていたら、このような訴訟にたどり着きました。

 

それは、生まれつき茶色っぽい髪を黒く染めるように教諭たちに強要されて不登校になったとして、元女子生徒が府立の高校を訴えた事例です。



大阪地裁は、元生徒側の訴えを一部認め、府に33万円の支払いを命じました。不登校後の学校側の対応(学校が名簿に生徒の名前を載せなかったり、教室に席を置かなかったなど)を違法と認定しました。

 

しかし、校則については、生徒の非行を防ぐ教育目的に沿ったものであり、「社会通念に照らして合理的で、生徒を規律する裁量の範囲を逸脱していないと判断され、教育的指導における裁量の範囲を逸脱した違法があったとはいえないと違法性を否定しました。校則を巡る学校側の裁量権を幅広く認めてきた過去の司法判断を踏襲する形となりました。

 

私はこの訴訟を知って「うーん」と首を傾げたくなりました。

 

不登校後の学校側に行き過ぎた対応があったことは認めていますが、【生徒の非行を防ぐ教育目的に沿ったものであり、「社会通念に照らして合理的で、生徒を規律する裁量の範囲を逸出していない」】という文章に具体的にどんな非行を防ぐ社会通念?と思いますし、生徒の髪を黒色に統一することのどこに合理的な理由があるのかさっぱりわかりません。

 

服装の乱れが心の乱れに繋がり、非行に走ってしまうから?

髪の色を黒色に統一しないと周りの生徒が不公平を感じ学級崩壊が起きてしまうから?

 

言っておきますけど、黒髪といっても全員が同じ、カラスの濡れ羽色ような真っ黒な黒髪ではありません。生来の髪でも、少し赤みかかった黒髪もあれば少し緑色がかった黒髪もあります。よおく見ると色はそれぞれ違います。

多分、元女子生徒の髪は平均よりも明るい茶色みがかった髪色だったのではないのでしょうか。

それをもっと暗い黒色に染めろと強要されたのではないのでしょうか。



そもそも、校則ブラックなもので、生徒の権利を制限する時点で正しいものではなく正しくはないけれども、全体(多数派の)の安全、安心、快適のために作られているという意見もあります。



確かに団体で生活をする上で、ある程度のルールがあった方がいいでしょう。それはまだ、未熟な年少者たちなら尚更、悪い道に進まないように大人が導くのが当然という気持ちもわからなくはないです。

 

でも、なんかおかしくないですか?

 

下着は白色を着用しなさいという校則があったり、ツーブロックの髪型は禁止されたり。

 

色のついた下着が透けて目立つなら、看護師の制服のような透けない生地で制服を作ればいいし、なんで生徒側が気を回して白い下着をつけないといけないのか?

 

ツーブロックは就職に不利というなら、その事実を教えた上でそれでもツーブロックにしたいなら生徒本人の選択に任せればいいと思います。

 

などと、現場を知らない外からの人間こういった意見を言えばいうほど、教師たちは頑なになり、現場の裁量で校則などのルールを決めてしまうそうです。

 

そうなると教師の主観、いわゆる先生たちの快、不快で校則が決まってしまうという冒頭で紹介した小学校教諭のようになってしまうのです。

この悪循環を打ち消すにはどうしたら良いのでしょうか?

 

熊本市の取り組み

〇自分たちの決まりは、自分たちで作って、自分たちで守るという民主主義の基本を身に付けながら、自ら判断し行動 できる児童生徒を育成することを目的とし、校則・生徒指導のあり方の見直しに取り組みます。

 

 

仕組みづくりのポイント

・教職員と児童生徒、保護者が見直しに関わる仕組みを構築します。 

・学校外から広く意見を聴くため、各学校の判断で、学校評議員等を加えても構いません。

・少なくとも年1回は、この仕組みにより校則の見直しを行います。

・できる限り多くの教職員や児童生徒、保護者の意見を反映します。 

・協議にあたっては、教職員と児童生徒、保護者などの人数のバランスを考慮します。 

・児童生徒等へ協議に必要な情報を提供しながら進めます。

・校長は、協議の結果を尊重することを基本とするが、協議での結果と異なる決定をする(校則制定の有無や校則の内容)場合は、教職員や児童生徒、保護者へその理由を説明して下さい。




【参考】 児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)

本条約は、「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」の4つの子どもの権利を守るように定め ています。参加する権利では、子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、大人はそ の意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。(出典:公益財団法人 日本ユニセフ協会)

引用;熊本市の取り組み 

以上のように、校則に対して真剣に向き合い出した自治体もあります。

民主主義の基本に立ち返って、生徒自身が校則を考え、決めることはとても良いと思います。そして、教師、保護者、近隣の住民などの意見を広く聞くことも重要だと思います。

変化を恐れずに、既存の校則、ルールを見直し、本当にこの校則、ルールに合理性があるのか、きめ細やかに分析してみるしかないように感じます。

終わりに

流通しやすい段ボール箱に合わせて形の揃った大根を生産するように、子どもたちも校則という名の箱に合わせて教育してしまっているように感じます。

 

言わずもがな、子どもたちは大根ではありません。自由とは何か義務とは何か子どもの人権とは何かを今一度考え直す必要性があると思います。

 

ロシアの教育学者ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」理論のように、子どもが自主的取り組んでできたことよりも、大人が手助けした結果の方がはるかに多くのことができるようになります。

そのような教育をしてほしいと思うのですが、それは難しいことなのでしょうか?

 

ここでいくら書いても「絵に描いた餅」と言われてしまうかもしれませんが、私はそのような教育を願います。

 

参考サイト

Yahooニュース 【大阪の黒染め校則訴訟】なにが争点だったのか、校則は誰かのためになっていたのか?

note  ブラック校則がなくならない理由

衆議院 質問本文情報

北海道家庭医療学センター ジャーナルクラブ 人はどうやって認知発達をしていくのか?

HOME

ブラック校則

2 件のコメント

  • 末尾の「そのような教育」とは、「ロシアの教育学者ヴィゴツキーの『発達の最近接領域』理論のように、子どもが自主的取り組んでできたことよりも、大人が手助けした結果の方がはるかに多くのことができるようになります」ということなのか、あるいは「子どもが自主的に取り組んできたこと」なのか、どちらですか? 文脈から読み取ると、後者だと思うのですが、指示語をそのまま受け取ると、迷います。

    • 堀田哲一朗様、最後まで記事を読んでくださりありがとうございます。
      色々な話題を盛り込んでおり、分かりにくいところがあったことはお詫び申し上げます。
      ご指摘の件ですが、生徒が自分1人で取り組んだ結果よりも、教師などの大人が手助けした結果の方がより多くのことができるようになります。生徒1人の実力からさらに教師が引き出した伸びしろのことを「発達の最近接領域」と言います。いずれ、その伸びしろも生徒自身の実力になっていきます。そのような教育をしてほしいと私は願っています。
      以上でお分かりいただけましたでしょうか。また、気になる点がありましたら、お気軽にご指摘ください。
      私の記事に興味を持っていただき、嬉しく思っています。

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。