知的障害カップルの不妊処置について~善意か差別か~

不妊処置

この記事は約 6 分で読むことができます。

はじめに

就寝前にテレビでニュース番組を見ていたら、あるニュースが私の目の中に飛び込んできました。

それは、北海道の施設で起きたことでした。詳細は以下の通りです。

知的障害カップルの不妊処置

檜山の江差町にある障がい者支援施設で、結婚などを希望する知的障がいがあるカップルに対し、不妊処置を求め、これまでに8組16人が応じていたことが分かりました。

 江差町の社会福祉法人=「あすなろ福祉会」が運営する障がい者支援施設では、知的障がいがあるカップルが同居や結婚を希望した際に男性はパイプカット手術、女性は避妊リングをつける不妊処置への同意を求めていました。あすなろ福祉会によりますと、不妊処置への同意は25年以上前から行っていて、これまでに8組16人が応じたということです。あすなろ福祉会 梅村雅晴常務理事:「知的な障がいがあって子どもを育てることができないから子どもはいらない、子どもが出来たら困るという方もいる。保護者と本人の意思があって避妊手術を望むということ」。道は事実関係を確認するため19日午後にも職員を施設に派遣して、聞き取り調査を行い適切な対応をとるとしています。

引用:知的障がい者のカップルに不妊処置要求 江差の社会福祉法人(HTB北海道ニュース)

私がこのニュースを知って思い出したのは、「青い芝生の会」の横田弘さんのことでした。

「善意」に隠れた無自覚な差別

50年前のある事件

およそ50年前に横浜市で障害児殺害事件が起きました。介護に疲れた母親の犯行でした。地域住民が同情して、刑の軽減を求める運動が巻き起こりました。

この同情の声に異を唱えたのが、脳性まひ当事者団体である「青い芝生の会」でした。

世の中の「善意に」に隠れた無自覚な差別を痛烈に批判し続けたのが横田弘さんです。

 昭和45年に母親が脳性まひの娘を殺害した事件で、横田さんたちは「殺される側」の立場から世間に反発。介護の末にわが子を手に掛けた母親をふびんに思い、障害があるまま生き続けるより殺された方が幸せという考えを会の行動綱領で「愛と正義の持つエゴイズム」と表現し、否定。街頭でマイクを手に「私たちを殺すな」と訴えた。

引用:産経新聞 横浜障害児殺害事件から50年 無自覚な差別許すな、訴え続け 脳性まひ当事者団体「青い芝の会」

「あすなろ会」の言い分

樋口理事長は、共同通信の取材に「授かる命の保証は、われわれはしかねる。子どもに障害があったり、養育不全と言われたりした場合や、成長した子どもが『なぜ生まれたんだ』と言った時に、誰が責任を取るんだという話だ」と答えた。

 1998年ごろから条件化し、これまでに8組16人が不妊処置を受けたという。樋口氏は「結婚の申し出があれば、職員が考えを説明し、カップルが話し合う。保護者の同意も得る」と話したが、不妊処置を拒否したら就労支援を打ち切り、退所を求めていた。

 「障害のある当事者のケアはするが、生まれてきた子どものケアまでしなければならないのか。その法人の考え方、支援の幅でいいんじゃないか」。樋口氏は取材にそう答えている。

引用:結婚望む障害者に不妊手術…優生思想の亡霊は今も 障害者の自己決定権を脅かす社会の危うさ:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

知的障害者同士の親から、健常者の子どもが生まれる可能性もあります。遺伝の仕組みは複雑で、一概に言えないところがあります。障害者が子どもを産む権利がなければ、それは、鏡のように跳ね返り、健常者にとっても障害を持つ子どもを産んではいけないということにもなります。

障害者は生まれる権利を持たないということでしょうか。

海外では、障害者も子孫を残す権利が認められ、なんなら性行為を行うときに介助してくれる国もあると聞きました。この話を聞いたのは私がまだ学生のときだったので今から20年以上も昔のことです。

外国で、できることをなぜ日本ではできないのでしょうかと、素朴に疑問をもちました。

人間は誰しも、生まれるところを選べません。遺伝子も環境も選ぶことができません。不条理極まりない「生」を誰しもが受け入れて生きています。生まれてくる「生」の責任は生まれてきた本人しか取ることができません。

確かに不妊処置をしていれば、50年前の事件の様に、母親が子を殺害する悲劇は防げたかもしれません。

しかし、障害者が生まれることさえ、許されない社会とはとても窮屈で世知辛い社会と言えるでしょう。

知的障害者カップルが子育てできる社会とは、健常者にとっても子育てしやすい社会なのではないでしょうか。

少し見方を変えてみましょう

障害者の家族形成とは

近代西洋医学は、障害を心身の異常や欠損に見出し、個人が克服する課題と捉えます。

このような「医学的なものの見方が障害を個人化してしまう」という考え方は、1970年代にイギリスで生まれました。

これにより、社会に責任はないのか問われるようになりました。社会は責任を持って、障害者に不利益を被らないように対策を構築する必要があると考えられるようになりました。

医療は、目前の障害を抱えた人々の支援を出来る範囲でしているだけだといえるでしょう。そこには、本来、障害者を社会的に排除しようという意図はなかったはずです。

医療現場で行われている障害者支援の間には、解決が難しい矛盾があるといえます。

参考:大阪大学 障害と妊娠・出産・育児

このように、不妊処置は医療的アプローチで問題を解決しようとした典型的な例だったのではないでしょうか。社会の責任として問題を解決しようとはしなかった例に思えます。

終わりに

きれいごとを言うなと言われれば、それまでのことです。大変難しい問題であると感じます。

両親が健常者であっても、子育ては大変です。しかし、障害者は本当に子育てはできないものなのでしょうか?

知的障害をふくめ、すべての障害を抱えた人たちの子育ては支援の対象にならないことはあまり知られていません。

私自身、未婚で子なしの子育て経験のない女性ですが、実際のところ障害を抱えながら子育てしている方々に話を聞いてみたいと思いました。

障害者であっても、結婚、出産、育児ができる社会に必要なものとはなんなのでしょうか。誰か、わたしくしに教えていただきたいものです。

参考サイト

知的障がい者のカップルに不妊処置要求 江差の社会福祉法人(HTB北海道ニュース)

産経新聞 横浜障害児殺害事件から50年 無自覚な差別許すな、訴え続け 脳性まひ当事者団体「青い芝の会」

結婚望む障害者に不妊手術…優生思想の亡霊は今も 障害者の自己決定権を脅かす社会の危うさ:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

大阪大学 障害と妊娠・出産・育児

noteでも書いています。よかったら、読んでみてください。

おすすめ記事の紹介

HOME

不妊処置

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。