「普通」にならなきゃダメですか?〜発達障害女性の私の「普通」〜

普通にならなくていい

この記事は約 9 分で読むことができます。

突然ですが、私、ツワブキはいわゆる「普通の女性」ではありません。

ツワブキはASD(自閉症スペクトラム)とADHDを併発している発達障害者です。

この時点で、世の中の大多数の女性とは違う存在だと言えるでしょう。

そして、発達障害の影響もあって、私の趣味や嗜好、興味があること、考え方なども、世の中の大多数の女性とは少しズレているようなのです。

私は自分のことを世間一般から見て「普通じゃない」「変わっている」と認識しています。

かつては、そのことを気にして「なれるものなら普通になりたい」とさえ思いました。

しかし、今はもうそう思いません。

そう思わなくなったことで、私は間違いなく生きやすくなりました。

今回の記事では、「普通」にならなくてもいい、というメッセージを込めながら、どうして私がそう思うのかをお伝えしていこうと思います。

オシャレへの興味<<<趣味

まず、私はオシャレへの興味関心が非常に薄いです。

一応断っておくと、まるで興味がない訳ではありません。

パーソナルカラー診断やら、骨格診断やらをしてみたい気持ちはありますし、綺麗な格好や可愛い格好をすると心が弾みます。

しかし、その興味関心がとにかく持続しないのです。

趣味のゲームのことはいくらでも考えられますが、オシャレについてそんなに長くは考えられません。

オシャレについて勉強する気になっても、それは一過性のもので、すぐに飽きていつも通りの格好に戻ってしまいます。

流行を追いかけるのも楽しいというより苦痛ですし、何なら化粧だって面倒くささが勝つのであまりしません。

それでいいのか成人女性、と思わなくもないですが、とにかく面倒臭い

誰に見せる訳でもあるまいし、別に化粧が上手という訳でもないし、と言い訳してはオシャレから逃げています。

正直に言えば、よほど奇抜だったり悪目立ちしたりするような格好でなければ、どんな服を着ていようが本人の勝手だろうと思っています。

自分の服装はおろか、他人の服装にも無頓着なのです。

逆に、いわゆる「普通」の、世間一般の女性たちは、どうしてそんなにオシャレへの興味関心が持続するのかが不思議でなりません。

自分の服装にも他人の服装にも、世の中のトレンドにも関心を持って、疲れないんでしょうか。苦しくないんでしょうか。

訳が分からなすぎて逆に尊敬します。世の中の女性って、すごい。

ともかく、こんな具合でオシャレへの関心を持続的に持てないあたりが、私が「普通ではない」ポイントの一つだと思います。

ガールズトーク、興味ナシ

いわゆるガールズトークと言われるような、噂話などの類への興味も私はかなり薄いです。

噂を自分から仕入れてくることなどほぼないに等しく、人の噂を聞いても「ふーん」以上の感想を抱くことは稀です。

前項で話したオシャレについて以下の興味しか抱くことが出来ません。

興味が薄いと、必然的にそうした話題についていくのが難しくなります。

元々私はいわゆるオタク気質で、趣味もそういった方面に偏っているので、学生時代は特に話が合う人がごくごく限られていました。

話が合わなくて周囲から浮いた存在になっていたのは否めません。

そのことに悩んだこともありますが、現在は話が合う人と話せればいいやの精神でいるので、結局ガールズトーク的なものに対しての苦手意識は変わっていません。

趣味の話ならいくらでも出来るのですが、それ以外となると途端に苦手になってしまいます。

例外的に恋愛の話は少し興味があるので出来ますが、それだって趣味に対する興味には絶対に勝てません。

これもまた、私が「普通ではない」ポイントの一つと言えるでしょう。

そもそも「普通」って何なんだろう?

さて、ここまで私は、如何に自分が「普通ではない」かという話をしてきました。

しかしそもそも、「普通」とは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。

私の中での「普通の女性」像は、オシャレに興味があり、外見を維持する努力ができ、ガールズトーク的なものを好む存在、ということになります。

だから、そうした存在ではない自分は「普通ではない」し、「普通」にはなれないと思っています。

しかし、同時にこうも思うのです。

「普通」とか「普通ではない」とか、その基準は人によって様々なものです。

先に挙げた「普通の女性」像だって、他の人に言わせればもっと違うものが挙がってくるかもしれません。

そもそも、世間一般で「普通」とされる事柄だって、大多数の人が「普通」だと思っているからそう認識されているだけの話です。

つまり、「普通」という基準自体が、とても曖昧なもの。

特に発達障害者にとって、曖昧なものは大変捉えづらい、いわば天敵です。

人の気持ちを察して動くのも苦手なのに、ましてや他人の中にある普段は口に出さない曖昧な基準など、正直言って絶対分かりません。

たまたまその人の「普通」と自分の「普通」が重なってでもいない限り、誰かの「普通」になんて狙ってなれるものではないと思います。

世間一般の「普通」、自分の中の「普通」

誰かの「普通」になんて、狙ってなることは出来ない。

そう考えているとお話ししたところで、私は、そもそも何故こんなに「普通」かどうかに拘るようになったのかを考えました。

幼い頃の私は、「普通」になりたいなんて考えたこともありませんでした。

世間一般の「普通」というものを、全然知らなかったからです。

周囲の大人は「変わった子」だと思っていたかも知れませんが、幼い私の知るところではありませんでした。

それが、長じていくにつれて、段々と自分が世間一般の「普通」からはズレていることを感じ取り、自分は「普通」じゃないんだ、と考えるようになったように思います。

でも、本当は、自然体の自分が自分の中では一番「普通」であるようにも思います。

私の思い描く「多分これが普通」の女性像と同じ自分を想像すると、誰?という感想しか出てきません。あまりに違いすぎて若干気持ち悪さすら覚えます。

普段の自分が一番「普通」の自分です。例えそれが、世間一般の「普通」とは違ったとしても。

逆に私から見れば、世間一般の「普通」の方こそ変わっているように見えます。

「普通」そんなに見た目に気は使えないし、面倒くささが勝つし、人の噂より自分の趣味の話の方がよほど面白いし、話しやすい。

正直に言えば、世間一般の「普通の女性」たちの方が、私から見ると「変わっている」ように見えています。

世間一般の「普通」は結局、数が多いから「普通」になっているのです。

たまたま数が少ない側にいたからと言って、それがおかしいなんて馬鹿げています。

「変わっている」? それがどうしたというんでしょう。

たまたま、自分の「普通」は数が少なかっただけです。それが他人に迷惑をかけるものでない限り、変わっていようが別に構わないはずなのです。

「普通」じゃないと生きづらい、それでも

変わっていようが別に構わないはず。それでも、世間一般の「普通」とズレていると、どうしても生きづらい思いをすることはあります。

人間はそもそも、自分とは違うものを拒絶しがちな生き物です。

特に日本人は村社会だった関係もあってその傾向が殊更強いと言われます。

和を大事にしすぎて、同調圧力になってしまうこともしばしばあります。

そうした「普通」の圧は、時に「普通ではない」人、「変わっている」人に生きづらい思いをさせ、苦しめてしまうことがあります。

かつて私も、「普通」ではないことを理由に嫌な思いをしたことがあります。

結果、一人になってしまったり、誰にも理解してもらえていないと思ったりした時もありました。

しかし、今まで生きてきて、一つ思ったことがあります。

「普通ではない」私。「変わっている」私。そんな私のそばにいて、関係を持ってくれる「変わった人」がいる、ということです。

自分の周りにいてくれる人がいる、という点において、ツワブキは実に恵まれていると自分でも思います。

確かに、人間関係で嫌な思いはたくさんしてきました。

いじめられたこともありますし、トラブルもたくさん起こしましたしそのたびに周りから人が消えていきました。

それでも、そんな私のことを見捨てないでいてくれた人がいました。

「変わっている」私を「変わっている」まま尊重し、愛してくれる人が私の周りにはたくさんいます。

例えばそれは私の同居人であり、私の友人たちであり、私の家族です。

もしかしたら、私にとってはたくさんでも、他の人から見れば少ないかもしれません。でも構いません。

自分が「たくさんいる」と思っているから、それでいいのです。それに、多ければいいというものでもないのですから。

私の周りには、私を受け入れてくれる人がいる。

だから、別にいいんだと思います。

誰かの「普通」に無理に自分を押し込めて当てはめなくても、一緒にいてくれる人がいるのですから。

誰かの「普通」になんてならなくていい

私は「変わっていて」「普通ではない」女性かもしれません。

実際、世間一般の女性と比べれば、そうなのだろうと自分でも思います。

しかし、そんな私の周りにいてくれる「変わった人」も少なくありません。

「普通ではない」ことは、良くないことでは決してありません。

ただ、少数派であることには変わりないので、一緒にいてくれる人は限られてくるかもしれない、というだけの話です。

もしこの記事を読んでいる中で「普通ではない」ことに悩んでいる方がいれば、私はその方に伝えたいと思います。

他人と違うことは悪いことではないと思います。

何をどうしようが、あなたはあなたであり、それがあなたの「普通」です。

もちろん、自分で自分を省みた時に、悪いと思うところは変える努力をするべきでしょう。時には他者の意見を聞き入れて、変わっていくことも必要でしょう。

ですが、決して無理をして他者の「普通」になろうとはしなくて良いと思います。

そこまでしないと一緒にいられない人とは、一緒にいようとする分だけ苦しむことになりかねません。

ありのままのあなたを受け入れてくれる人は、きっといるはず。

私は、そう思います。

だから、こう問うのです。「普通にならなきゃ、ダメですか?

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

HOME

普通にならなくていい

2 件のコメント

  • 普通がそもそも何だろう
    でも自覚しないうちに学校を休みがちな孫に「みんなは普通に行ってるでしょ!」などとのたまわってしまう。
    でも最終的には、その子の生き方なのよね。自分の時はそうだった!は孫には通用しない。
    ひとってどうしても自分を中心に回りを見るから、月分の思いとはずれた人は?ってことに。でもそれは、その人の考え方であって。
    みんな生き方が違うんだ❗普通ってないんじゃなあい?
    ここが第1歩な気がする。

    • コメントありがとうございます。
      気をつけていないと誰かに自分の中の「普通」を押し付けてしまうこと、あると思います。
      「普通」というのは結局自分の考え方で、それは人によって違うもの。
      普通ってないんじゃないか、それが第一歩なんじゃないか、ということですが、まさにその通りかと思います。
      それぞれの生き方、考え方を尊重できる世の中になっていけばいいですよね。
      記事を読んで頂き、ありがとうございました。

  • ジュリ へ返信する コメントをキャンセル

    メールアドレスが公開されることはありません。