終戦特集 あの戦争は何だったのか  あの戦争を振り返る 三冊の書籍から

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1.終戦記念日

8月15日は終戦記念日でした。あの戦争から73年が経ちます。ここでは、三冊の書籍から、あの戦争を振り返っていきたいと思います。

2.9回の特攻で生き残った男・・・『不死身の特攻兵』

 2013年に公開された、映画『永遠の0』は特攻隊で出撃した兵士が主人公でした。国語辞典『大辞林』によれば、特攻隊(特別攻撃隊)とは、「特に第二次大戦中、体当たり攻撃を行った日本の航空部隊」を指します。

 そんな、特攻隊ですが、最近、特攻に関する本が注目を集めています。劇作家の鴻上尚史氏が書いた『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社)です。発売されてからすぐに増刷を重ね、たちまち話題作となりました。

 『不死身の特攻兵』は、陸軍の第一回の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」に所属していた佐々木友次さんについて書かれた本です。佐々木さんは、特攻隊員として9回出撃し、いずれも生還。終戦まで生き残りました(2016年に逝去)。佐々木さんはなぜ、このような運命を辿ることになったのでしょうか。

 初期の特攻兵は、確実に作戦を成功させるため、操縦に長けた優秀なパイロットが選ばれました。佐々木さんの所属する万朶隊も、佐々木さんを含め腕利きのパイロットが選ばれましたが、佐々木さんはだからこそ、自分の能力をふるう機会すら与えられずただ体当たりを命じられた特攻の命令に大きな疑問を感じていました。

 また、彼らが特攻で使う爆撃機は爆弾が機体に縛り付けられており、パイロットが死を恐れたとしも爆弾を落とせないため、体当たりするしかありませんでした。

 万朶隊を率いた岩本益臣体長はこの設計に憤り、独断で爆弾を落とすことができるように改装させました。加えて岩本隊長は、「これぞと思う目標を捉えるまでは、何度でも、やり直しをしていい。それまでは、命を大切に使うことだ。決して、無駄な死に方をしてはいかんぞ」と語ったうえで、「出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」と言ったといいます。

 結局、岩本隊長は万朶隊として出撃する前に戦死してしまいますが、佐々木さんはこの命令を守り、爆弾を落として帰ってきました。

 佐々木さんにはそれから何回も出撃命令が下されます。それは、敵艦を沈めることを意図したものではなく、だた彼を特攻させて殺すための出撃でした。参謀長は、佐々木さんを次のように怒鳴りつけたといいます。

 佐々木はすでに、二階級特進の手続きをした。その上、天皇陛下にも体当たりを申し上げている。軍人としては、これにすぐる名誉はない。今日こそ必ず体当たりをしてこい。必ず帰ってきてはならんぞ。

 

 佐々木の考えは分かるが、軍の責任ということがある。今度は必ず死んでもらう。いいな。大きなやつを沈めてくれ。

 出撃を繰り返すうち、佐々木さんを擁護する機体の数も減らされ、8回目の出撃ではついに1機もつかなくなりました。これでは、特攻の「本当の成果」さえ確認することはできません。

3.死にゆく兵士たち・・・『日本軍兵士』

 「名誉ある戦死」とされる特攻兵ですが、あの戦争で日本兵を襲ったのは、戦闘による戦死ではなく、「飢え」でした。映画の見せ場としては敵軍との戦いや特攻のほうが絵になりますが、実際の戦争では、餓死者が戦死者を上回っていました。

アジア・太平洋戦争で戦没した日本兵230万人のうち、60%の140万人が戦病死者(ほとんどが餓死者)でした。特攻で亡くなったのは4000人といわれ、1~2%程度です。物資の補給もなく送り込まれた日本兵は、生き延びるために自ら畑を耕したり、時には人間を食べたりしました。

 『日本軍兵士ーアジア・太平洋戦争の現実』(吉田裕著・中央新書)は、そんな戦争における戦病死者の実態に迫った書籍です。

 多数の餓死者を出した最大の要因は、制海・制空権の喪失によって、各地で日本軍の補給路が完全に寸断され、深刻な食糧不足が発生したためです。

 前線部隊に無事に到着した軍需品の割合は、1942年の96%だったのが、43年には83%、44年には69%に、さらには45年には51%にまで低下し、海上輸送された食糧の3分の1から半分が失われました。

 さらには、アメリカ軍がマラリアを媒介する蚊を駆除し、マラリア予防に成功していたのに対し、日本兵はマラリアに苦しめられます。マラリアに感染すると、40度の高熱が出てそれが1週間ぐらい続き、それで体力が弱まったころに食糧がなく、極度の栄養失調に陥って餓死していく兵士が多かったのです。

 餓死者だけではありません。数字上は「戦死者」としてカウントされるなかでも、とくに「海没死者」の数は多く、35万人を超えたといいます。海没死とは、艦船の沈没に伴う死者のことを指します。

 多数の兵士たちが海没死した要因としては、アメリカ海軍の潜水艦作戦が成功したこと、日本軍の輸送艦の大部分が徴傭して改造した貨物船であり、狭い居住空間に多数の兵員を押し込めていたことが背景にあるといいます。

 形式上は、戦死あるいは戦病死に分類される場合が多いものの、実際にはそれとは異なる死も多かったです。ひとつは、「自殺(自決)」です。とくに、私的制裁による物理的な暴力だけでなく、侮辱など言葉による暴力に耐えかねて自殺する兵士も多かったです。

 自殺だけではありません。1941年1月8日に東条英機陸軍大臣が示した「戦陣訓」は、「生きて捕囚の辱めを受けず」という形で、捕虜となることを禁じました。これにより、戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などを殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのです。

4.戦争はまだ続いている?・・・『1940年体制』

 野口悠紀雄は、『1940年体制』(東洋経済新報社)の中で、1990年以降に続いた日本の長期不況の原因は、1940年ごろに作られた戦時中に構築されたシステムがいまだに続いており、その効率性の悪さが不況を長引かせていると批判しました。

 1940年ごろに構築された「1940年体制」とは、日本的企業、経営手法、労使関係、官僚制度、金融制度などです。それらの制度が戦後も生き残り、高度経済成長をもたらしたものの、高度経済成長期が終わった今でも残っていることで、日本経済に今、さまざまな影響を及ぼしていると論じたのです。

 1940年体制として成立したものは、まず銀行です。1942年に制定された「日本銀行法」は、今でも、日本の金融制度の基本法としてあり続けています。

 昭和の初期に1000を超えていた銀行の数は、昭和金融恐慌と戦時体制の強化にともなって次第に整理され、終戦時には61にまで減りました。それ以降、現在に至るまで、その数はあまり変化していません。

 また、日本を代表する企業の多くも、戦時期に発展しました。日本の自動車メーカーの多くは、軍用トラックメーカーとして戦時期に発展しました。

 終身雇用や年功序列賃金体系といった日本型雇用体系も、戦時期に整えられたと言います。

 日本は戦争により敗退したものの、「戦時体制」といったものは生き残っていったというのが、野口の主張です。

 確かに日本は戦争に負けました。しかし、ブラック企業、パワハラ、同調圧力といった日本的慣習は、いまだに根付いています。今後、1940年ごろに作られた戦時体制を打破するためにも、さまざまな分野で改革が必要でしょう。

5.最後に

 今回は、三冊の書籍を用いて、あの悲惨な戦争を振り返ってみました。今回の記事執筆に用いた三冊のどれも、見ごたえのあるものばかりです。いつか時間があれば、手に取ってもらえると嬉しいです。

  参考

鴻上尚史(2017)『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』講談社現代新書.

吉田裕(2017)『日本軍兵士ーアジア・太平洋戦争の現実』中公新書.

野口悠紀雄(1995)『1940年体制 さらば「戦時経済」』東洋経済新報社.

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2018.10.25

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